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「喜び・祈り・感謝」

2005年12月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 テサロニケの信徒への手紙 Ⅰ 5:16~18

 「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」――「心のともしび」というキリスト教放送のキャッチフレーズです。家庭にせよ、教会にせよ、社会にせよ、この全世界にせよ、いかなる共同体においても、その変化はたった一人の存在から始まります。暗い現実には多くの原因があるに違いありません。しかし、本当に重要なことは、このわたしが、そしてあなたが、あかりをつける一人になるかどうかなのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(1テサロニケ5:16‐18)。今日、私たちに与えられている御言葉です。この言葉を私たちがどう受け止めるかということは、私たち自身の人生にとって大きな意味を持つだけではありません。私たちの家庭にとって、教会にとって、社会にとって、この世界にとって、大きな意味を持つのです。この言葉をふさわしく受け止める時、私たちは確かにあかりをつける一人となるからです。

キリスト・イエスにおける神の御心

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」――実は、パウロはその勧めの言葉だけを語っているのではありません。彼がそのように勧めるのには根拠があるのです。その節の後半にはこう書かれています。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」これが勧めの根拠です。「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」――直訳すれば、「キリスト・イエスにおける神の御心」となります。キリスト・イエスにおいて現された神の御心です。パウロは、その神の御心を知ったのです。それゆえに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言っているのです。

 では、それ以前は、何を神の御心と信じていたのでしょうか。パウロは、かつてファリサイ派に属する者でした。彼の言葉によれば、「律法の義については非のうちどころのない者」(フィリピ3:6)でありました。事実そうだったのでしょう。当時のファリサイ派パウロが戒律を守ることにかけた情熱は、私たちの想像を絶するものであったに違いありません。その頃のパウロであったら、次のように書いていたと思います。「いつも神の戒めを守りなさい。絶えず神の戒めを守りなさい。どんなことにおいても神の戒めを守りなさい。これこそ、神があなたがたに望んでおられることです」。

 パウロにとっては、まず神の戒めを守り、従順であること、律法を遵守する正しい人間であることが先決だったのです。それなくしては何も始まらないのです。すべては神への従順、自分の義を差し出して、代わりに受け取る報いだったのです。そうです、救いでさえも、永遠の命でさえも、律法遵守の報いであると信じていたのです。かつてイエス様のもとに来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた青年がいました。その問いは、パウロの問いでもあったはずです。どんな善いことをしたらよいのでしょうか。これで十分でしょうか。これでは不十分でしょうか。

 しかし、そのようなパウロは、キリスト・イエスの十字架の内に、神の驚くべき御心を見たのでした。神はわたしたちを愛しておられる。まことに愛されるに値しない私たちを、神は愛しておられる。独り子を賜うほどに、独り子を十字架にかけて血みどろにして、罪の贖いの犠牲とするほどに、そのようにして私たちに罪の赦しを与えようとされたほどに、私たちを愛しておられる!――「イエス・キリストにおいて」とは、そういうことです。イエス・キリストは神の愛の究極的な啓示なのです。

 かつてのパウロにとって、神との関わりは、いわば神との取り引きでした。神の愛と救いを獲得するための取り引きでした。自分の義はそのための代金に他なりませんでした。いや、それはパウロだけではないでしょう。私たちは、あまりにも取り引きの関係、ギブ・アンド・テイクの関係に慣れすぎているので、いつでも神に対してそのように向かおうとするのです。しかし、「キリスト・イエスにおいて」パウロが知ったことは、まったく異なる神との関わりでした。神が望んでおられるのは、神の好意を得ようとして一生懸命に差し出す熱心さではないのです。神が見たいと望んでおられるのは、私たちが十分に従順であるというアピールではないのです。そうではなくて、神が望んでいるのは、神の子供たちの輝いた笑顔なのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

いつも喜んでいなさい

 とはいえ、「いつも喜んでいなさい」という言葉に出会う時、私たちの最初の反応は、「そんなことできるか!」ということであるかもしれません。なぜなら、私たちの生活には、私たちから喜びを奪うに十分な、ありとあらゆる要因が満ちているからです。いったいこれを書いたパウロは、そんなことも分からないのでしょうか。――いや、そんなはずはありません。彼自身、幾多の苦難を通過してきた人物なのですから。ですから、そのようなことを重々承知の上で「いつも喜んでいなさい」と言っているのです。

 ここで私たちは、もう一度パウロがこれを書いている理由を思い起こさねばなりません。神の子供たちが「いつも喜んで」いることは、他ならぬ神が望んでおられることなのです。神が望んでおられる――ならば神が与えてくださる、ということでもあります。ここで語られている喜びは、明らかにこの世が私たちに提供する喜びではありません。これは神が与えてくださる喜びなのです。天来の喜びです。パウロが別の箇所でこう言っているとおりです。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)と。

 確かに信仰者の生活経験には、聖霊によって与えられる天来の喜び、超自然的な喜びというものがあるものです。使徒言行録には、パウロが鞭打たれ、投獄されてもなお、その獄中で喜びに満ちて神を賛美していたことが記されています(使徒16:25)。そのようなことが起こるのです。それは身近なところにも見られます。私は牧師として、幾たびも葬儀を司式してきました。そこでしばしば目の当たりにするのは、信仰者が深い悲しみのどん底において、その真っ暗闇の中で、神に触れられる姿です。悲しみの中にある者に、神が平安と喜びを与えてくださるのです。悲しみの中にあるはずの人が、深いところからあふれ出でる喜びの涙を流すという、不思議な出来事が起こるのです。

 そのように、キリスト者であるならば、ある程度は、神から来る喜びを知っているはずです。問題は、そのような神から来る喜び、聖霊の与えてくださる喜びが、その人の生活の基調音となっているか、ということです。その喜びが私たちの生活全体を支配するようになっているか、ということなのです。「いつも喜んでいなさい」という勧めが意味するのは、そのようなことです。では、具体的に、どうしたら良いのでしょうか。目の前の悲しみや悩みや様々な問題が私たちの生活を支配するのではなく、神から来る喜びが私たちの生活を支配し続けるようになるには、いったいどうしたらよいのでしょうか。

絶えず祈りなさい

 そこで、今日の聖書箇所をもう一度読んでみましょう。パウロはただ「喜んでいなさい」と言っているのではありません。さらに、「絶えず祈りなさい」と言うのです。ここに具体的な秘訣がありそうです。

 ここで使われている「祈る」という言葉の第一の意味は「求める」ということです。祈りとは基本的に「求める」ことです。しかし、私たちは往々にして、究極的に何を求めたら良いのかを知りません。例えば、人は病気の癒しを求めます。人間関係の問題の解決、経済的な問題の解決を求めます。周りの人々が変わるようにと求めます。その他、様々な願い事をいたします。それ自体は悪いことではありません。あらゆる場面でことごとに神に向かうことは良いことです。しかし、神が祈りにおいて与えようとしておられるのは、ただ単にコップ一杯の水ではないのです。泉そのものを与えようとしているのです。祈りにおいて、本当に求めるべきは神御自身なのです。神を呼び求めるのです。神の臨在を求めるのです。神との交わりを求めるのです。そうです、神との生きた交わりを求めるのです。それが祈りです。

 もし単に必要なものを願うだけであるならば、「絶えず祈りなさい」という勧めは現実的ではありません。願い事だけならば、それほど多くはないでしょう。長く祈ることによって、多く祈ることによって、願い事が叶うと思っている人がいるならば、それは聖書の教えていることとは異なります。しかし、神との交わりということに関しては、ある程度時間が関係してきます。古代の教父たちが「絶えず祈ること」「時を定めて祈ること」「長時間祈ること」などを勧めたことは、現代の私たちにとっても重要なことです。

 私たちが喜びをもって生きることを望んでおられる神が、私たちにその喜びをくださるとするならば、その通路となるのは神との生きた交わりです。それをもたらすのは信仰と絶えざる祈りの生活です。何をするにしても、神を求め、神の臨在を覚えて生きることです。

 そして、それはまた、絶えざる悔い改めの生活でもあります。罪は、神と人との交わりを妨げます。罪を悔い改め、赦しを受け、罪が取り除かれなくてはなりません。罪を取り除く贖いの小羊は、既に尊い血潮を流してくださいました。私たちは罪の赦しを祈り求め、キリストの血によって罪を除かれなくてはなりません。そのように、祈りの生活は、闇の中に自分を置かないで、常に神の光の中を歩み続けることに他なりません(1ヨハネ1:5‐10)。

 いずれにせよ、天からの喜びを経験し、その喜びが生活を支配しているキリスト者と、そうでないキリスト者の違いは明白です。それは、祈る者であるか、祈りを失っている者であるかの違いです。何よりも祈りの人になりましょう。熱心な信仰者であることも大事ですけれども、天来の喜びを失った熱心さは、必ず人を裁く律法主義に陥ります。祈りの人になりましょう。

どんなことにも感謝しなさい  そして、次にパウロは、ただ「絶えず祈りなさい」というだけではなく、「どんなことにも感謝しなさい」と言いました。「喜んでいること」「祈ること」「感謝すること」は互いに関係しています。祈ることが神からの喜びをもたらし、その喜びがさらに私たちを祈りへと導きます。そして、また、祈りを通しての神との交わりによって与えられた喜びは、あらゆる不平不満を追い出して、人を感謝に満たすのです。そして、さらに感謝は喜びを産み出すことでしょう。

 実際このことを、私は毎日の生活の中でしばしば経験いたします。生来の私は不平やつぶやきの多い人間です。それは私の妻が一番よく知っています。しかし、その私の口から確かに不平やつぶやきが消える時があるのです。現状が変わらなくても出てくる言葉が変わるのです。それは、神から喜びをいただいている時です。天からの喜びが心の内に満ちている時です。

 神が私たちの心の内に喜びを満たしてくださるなら、現実の様々な問題は、私たちをさらに深く神に結びつけるものとして働きます。そのようにして深められた神との交わりは、神へのより深い信頼を生み出すのです。そして、神への深い信頼が、神への感謝を生み出すのです。このように、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めの言葉は、聖霊における神のお働きなくして意味を持たないのです。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」このことを神が望んでいてくださる。そのことこそが私たちの希望です。これを神の御心として受け止めていく時に、私たちは確かにあかりをつける一人として、一歩を踏み出すことになるのです。

 
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