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「目を覚ましていなさい」

2005年11月 6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 25:1~13

喜びとしての終末

 本日はマタイによる福音書25章に書かれている「十人のおとめのたとえ」をお読みしました。このたとえ話は終末に関するものです。聖書はこの世界に初めがあり終わりがあると教えています。不条理に満ちたこの世界が永遠に続くのではありません。先ほど使徒信条を共に唱えました。その中で「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」という言葉が出て来ました。かしこより来られるのはキリストです。キリストが終わりの日に再び来られ、この世界を総括される。「裁きたまわん」とはそういうことです。その時が来るのです。

 とはいえ、「この世界の終わり」も「終末におけるキリストの再臨」も、日常生活の経験から類推できるような事柄ではありませんので、なかなかピンの来ないという人もおられるでしょう。しかし、「世の終わり」まで言わなくても、もっと身近であり、しかもすべての人に関わっている「終わり」があります。それは個人の人生の終わりです。

 今日は聖徒の日の礼拝を共に守っておりますが、この日の礼拝では特に、既に人生を終えられた方々を覚えつつ礼拝を捧げます。そして、確実なことは、私たちの人生もまた、やがて同じように終わりを迎えるということです。その事実にしっかりと目を向けることなくして、記念礼拝を守ることはできないでしょう。その意味におきまして、「終わり」について語る今日の聖書箇所は、ここにいる私たちすべてに深く関わっているのです。

 さて、終わりに目を向けるということは、一般的に言いまして、たいへん恐ろしいことでもあります。それゆえに、このような聖書箇所も《終わりの日に起こる恐るべきこと》として読まれるかもしれません。そのように読む人は、今日の聖書箇所において、特に11節と12節が心に残ることでしょう。「その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(11‐12節)。確かに恐ろしいことです。外に閉め出されてしまうというのですから。しかし、そのように恐怖心だけを抱いて終わりに目を向けるということは、本当に正しいことなのでしょうか。イエス様は、そのようなことを望んでこのたとえを語られてのでしょうか。

 実はこのたとえ話独自の重要なポイントがあるのです。それは「結婚式」が舞台となっているということです。この点に注目しないで最後の部分だけを取り上げてしまうなら、このたとえ独自のメッセージを聞き損なってしまうのです。

 ここで語られているのはユダヤにおける結婚の祝宴です。その習慣はかなり私たちのものとは違います。しかし、いかなる民族であれ、結婚式ということに関して共通していますのは、それが「喜びの場」であるということです。聖書にしばしば婚宴の話がでてきますが、そこに共通しているのは「喜び」というテーマなのです。それは、私たちが考える以上に「喜び」なのです。それは当時一週間もお祝いが続けられたというところに象徴されています。苦しいことや辛いことが多い毎日だけれど、その時だけは皆が心から喜び楽しむことができる。それが結婚の祝宴だったのです。

 イエス様はそのように、終わりの日を喜びの日として語っておられるのです。終わりの日を喜びの日として受け止められる。それが本来の教会の姿であり、キリスト者の姿なのです。人生には必ずいつかは終わりが訪れます。この歴史にも終わりの時が来るでしょう。しかし、終わりを恐怖としか感じられないならば、それは実に悲しむべきことです。終わりに向かう自分自身を考える時、そこに虚しさや恐れしかないならば、それは実に惨めなことです。キリストのもとにあるならば、終わりはそのようなものではありません。キリストのもとにおいて、終わりは「婚宴」として語られ得るのです。喜びの場、溢れる喜びに与る場として語られるのです。キリストは私たちを最終的な喜びへと招いておられるのです。

賢さと愚かさ

 さて、そのような結婚式の場面に十人のおとめが出てきます。よく、この十人を花嫁と思っている人がいますが、彼らは花嫁ではありません。彼らは皆、基本的には婚宴に招かれた人々です。多くの人々が招かれるのです。そして、当然のことながら、多くの人々には役割がありました。結婚式、またその祝宴のためには準備すべきことがたくさんあったからです。花嫁は十人の友達に花婿を迎える役目をお願いしました。それがここに出てくる十人のおとめです。

 当時の婚宴は二つの祝宴から成り立っていたと言われます。まず花婿が花嫁の家に来て、前祝いとでも言うべき祝宴が行われるのです。続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われるのです。そこで、花婿がまず花嫁の家に向かって来たときに迎えに出る役割を担っていたのがこの十人です。時としては町外れにまで出て花婿を迎えるのです。時には花婿が遅くなることもあるでしょう。夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。それが彼らの役目なのです。

 繰り返しますが、彼らは全員等しく祝宴に招かれている人々なのです。大きな喜びへと招かれていた人たちなのです。しかし、同じように招かれていながら、その十人が二通りに分かれたというのです。聖書は何と言っているでしょうか。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。」賢い者と愚かな者に分かれるのです。それはいったいどういうことでしょうか。続いて聖書はこう説明しています。「愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた」(3‐4節)。賢いか、愚かであるか、その違いは油の用意をしていたかどうかの違いであったというのです。

 さて、このようなたとえ話を読みますときに、しばしば「油とはなんであるか」、「ともし火とは何であるか」というように、意味を読み込み過ぎる危険があります。油が何であるか、ともし火が何を意味するか、そんなことはどうでもよいのです。大切なことは別にあります。油を用意していた人たちというのは、花婿が来るまで、とにかく遅くなろうとも、ひたすら待つつもりでいた人たちだ、ということです。言い換えるならば、花婿を迎え、そしてさらに花嫁の家にまでお連れして、共に祝宴に与るその時までのことをしっかりと視野にいれて備えていた人たちだったということです。

 一方、他の五人は違います。その場、その時のことしか考えていなかった人たちです。夜だったからランプは持っていたのです。しかし、その先のことまでは考えていませんでした。彼らには目先の必要しか頭になかったのです。

 このイエス様のたとえ話をマタイが福音書に記しました。その背景にはイエス様の再臨を待ち望んでいた当時の教会の状況があります。初めのころは、すぐにでもイエス様が再びおいでくださり、神の国を完成してくださり、永遠の祝福のうちに迎えてくださるという期待があったのです。もうそれは当時のキリスト者が皆生きている間に起こると信じられていたのです。しかし、なかなかイエス様の再臨はない。そのうち迫害が激しくなります。そうすると、「いったいいつまで待たなくてはならないのか」という思いが誰の心をも支配するようになっていきます。しかし、主は言われるのです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。それがこのたとえの一つの意味です。

 しかし、これはもっと一般的に言いまして、私たちがどこまでを視野に入れて生きているか、ということを問いかけているたとえであると言ってよいかと思います。花婿を迎え、花婿と共に祝宴の喜びに与る時までを視野に入れて備えて生きているか。その計り知れないほどの喜びにあずかる終わりの時までを視野に入れて生きているか。それとも目先のことしか考えていないか。今、この場、この時のことだけを考え、そのことだけに振り回されて生きているのか。そのような問いを私たちに投げかけているのです。そして、前者を賢い者と呼び、後者を愚か者と呼んでいるのです。

 言い換えるならば、信仰生活とは、目の前のことではなくて、終わりのことまでを見ながら生きることである、ということでもあるでしょう。信仰者が目先のことだけしか見ていないなら、その内から必ず喜びが枯れていきます。忍耐も失われていきます。主の言われる賢さは、この世の賢さとは違います。この世の人々は、目の前のことにうまく対応し、その時を上手に要領よく過ごす人を賢い人と呼ぶのでしょう。しかし、もし終わりの時にまで目が開かれていないならば、主はそれを愚かなことであると言われるのです。主は、この油を用意していたおとめの賢さを求められるのです。

他者の責任に出来ない厳粛さ

 さて、もう一つ気になることがあります。油を用意していた五人はなぜ他の五人に油を分けてあげなかったのか、ということであります。人道的には明らかに間違っているでしょう。共に分かち合い、ランプの数を減らしてでも一緒に迎えたらよさそうなものです。

 しかし私たちはここに、お互いの人生における厳粛なる一面を見るべきでしょう。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがあるということです。そして、その人がどのように生きているか、生きてきたかということは、最終的には他の人と分かつことも、代わることもできないことなのです。あくまでもその人自身が問われるのです。その人が賢かったか、愚かであったかが問われるのです。

 それはまた、周りの人の責任にできない厳粛さであるとも言えるでしょう。私たちは、自分の人生がどうであるかということについて、周りの人々に責任を押しつけたくなるものです。「あの人のせいで、この人のせいで」と言いたくなるものです。しかし、「彼らが油を分けてくれなかった」という言い訳が通用しなくなる時が来ることを知らなくてはなりません。神様の前では「他の人がどうであったか」ということではなくて、「あなたはどうであったか。賢かったか、愚かであったか。」ということが自分のことがらとして問われるのです。

 再度繰り返しますが、彼らは皆祝宴へと招かれていた人々であったのです。その喜ばしき事実を彼らは忘れてはならなかったのです。やがて花婿と共に祝宴の席に着く時が来る。その喜びに満ちた期待を失ってはならなかったのです。その時に向けて目が開かれて待ち望む者でなくてはならなかったのです。私たちも同じです。私たちは驚くべき喜びへと、計り知れない祝福へと招かれているのです。「だから、目を覚ましていなさい」と主は言われます。やがて主にまみえるその時を覚え、与えられている務めを大切にしながら忍耐強く待ち望み、目覚めたものとして生きていきたいものです。

 
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