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「神のものは神に」

2005年10月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 22:1~14


「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(21節)。これが今日、私たちに与えられている主の御言葉です。

巧妙な問い
 この言葉は、次のような問いに対する答えとして語られました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(16‐17節)。

 ここで問題になっているのは《皇帝に納める税金》です。これは、紀元6年にユダヤがローマの直轄支配地になると共に導入された人頭税です。人頭税はその構造上、経済的な弱者に大きな打撃となります。これはローマ支配下のユダヤの人々に重くのしかかっていたに違いありません。ですから多くの民衆は納税には否定的でした。

 しかし、それだけではありません。そこにはさらに大きな宗教上の問題があったのです。 納税に用いられるのは、ローマのデナリオン銀貨です。そこに刻まれているのは皇帝ティベリウスの肖像です。そして、肖像と共に次のような言葉が刻まれておりました。「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」。つまりそこには政治的権威だけでなく、その神的権威の主張が刻まれていたのです。それゆえに、そのようなデナリオン銀貨をもって、神と等しい権威を主張している皇帝に税を納めることは、民族のアイデンティティと彼らの信仰に関わる極めて重大な問題だったのです。

 中でもこの税に対して最も強く反対していたのは、主イエスの故郷であるガリラヤを中心として活動していた熱心党でした。彼らは強硬な民族主義者たちです。後にローマからの独立を目指してユダヤ戦争を戦うことになる人々です。また、律法に忠実であり、ユダヤ教の純粋性を守ろうとしていたファリサイ派の人々も、当然のことながらこの税には反対でありました。しかし、現実的な判断から、納税拒否にまでは至らなかったようです。一方、ローマに隷属するヘロデ王家を支持するヘロデ派の人々は、この納税にむしろ肯定的でした。そこから少なからぬ利益を得ていたからです。

 そのように、これは信仰に関わる問題であり、かつ具体的な対応が別れている問題であるゆえに、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という質問が生じてきたのです。「律法に適っているかどうか」ということは、言い換えるならば、「神の御心に適っているかどうか」ということです。国家との関わりにおいて、信仰者は御心に適う生活をどのように営んだらよいのか、という質問です。極めて真面目で敬虔な問いです。そのような質問を彼らはイエス様のもとに持ってきたのです。

 しかし、敬虔な、宗教的な問いを発する人が、必ずしもその答えを真剣に求めているとは限りません。実際、彼らの目的は別なところにありました。彼らがわざわざ質問をするために訪ねてきた意図は、その直前に書かれております。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」(15節)。彼らの目的は、主を罠にかけることだったのです。

 この質問者のバックにいるのは、ユダヤの権力者たちです。その彼らがどうしてわざわざイエス様の言葉じりを捕らえるための罠を仕掛ける必要があったのでしょう。その理由は21章の終わりに次のように記されています。「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」(21・45‐46)。

 要するに、イエスを捕らえて殺そうとしていた彼らにとって、最大の障害は群衆の存在だったのです。この状況のもとで、イエスを亡き者とする方法は二つに一つしかありませんでした。一つは、群衆の支持を失わせてイエスの敵となるようにすること。そうすれば、群衆の騒ぎを恐れずに、イエスを捕らえることができます。もう一つは、イエスをローマ帝国に逆らう扇動者に仕立て上げること。そうすれば、ローマの国家権力によって、合法的にイエスを抹殺することができます。そこで巧みに考え出されたのが、この納税に関する問いだったのです。

 イエス様がもし、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」と答えたらどうなるでしょう。イエスを取り巻いている群衆の多くはローマからの解放を心から願っている人々です。この答えにより、主は民衆の支持を失うことになるでしょう。いや、むしろ彼らは主の敵に回るかもしれません。先に挙げた一つのことが実現します。彼らは安心してイエスを捕らえることができます。

 では、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適わない」と答えたらどうでしょう。この宣言は、多くの群衆が待ち望んでいた反ローマ闘争の幕開けと映るに違いありません。それは人々の反ローマ感情に火をつけ、現実に熱狂的な行動を引き起こすかもしれません。そうすればローマ軍が介入してくれます。いや、仮にそうならなくても、ローマに逆らうようにと群衆を扇動したと、当局に訴えることができるでしょう。

 このように、どのように答えてもイエス様は窮地に追いやられることになります。彼らの目的は、こうして実現するのです。このような敵意と憎しみに満ちた企てが、敬虔な言葉の装いのもとに実行されたのです。

 先にも申しましたように、宗教に関する問いを発する人が、必ずしも真剣に答えを求めているとは限りません。敬虔な言葉をもって議論をする人が、必ずしも神御自身に関心があるとは限りません。その動機が神への愛、神への信頼と従順であるとは限りません。その心の満ちているのは、悪意、敵意、あるいは自己保身的感情でしかないかもしれないのです。

 多くの人はここを読んで、イエス様のもとに来た質問者やその背後にいる人々に関して、いかにも悪そうな、ずる賢そうな、まことに人相の悪い人間を想像するかもしれません。しかし、恐らく実際の彼らの姿は、私たちの思い描くイメージとは異なるであろうと思います。ユダヤ人社会において、彼らは真面目で敬虔な人々と見なされていたのです。立派な人として、一般的には尊敬の対象だったのです。

 私たちはしばしば極悪非道な事件を伝えるニュースを見て、世の罪を嘆きますが、聖書が描き出しているように、本当の意味で罪の恐るべき力が現れるのは、往々にして、世において明るく見えるところ、真面目さがあり清さがあるように見えるところ、正義が語られるところにおいてなのです。私たちは聖書のこのような場面において、私たち人間の罪深さ、その底知れぬ暗黒を突きつけられているように思います。そして、その暗黒のただ中に、イエス様は立っておられるのです。罪の贖いの十字架に向かわれる方として、主はそこに立っておられるのです。

神のものは神に返しなさい
 そこで主は彼らに言われました。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らは納税に使うデナリオン銀貨を持ってきました。そこで主は問われます。「これは、だれの肖像と銘か。」彼らは、現実の貨幣を前にしては、ただ事実を述べるしかありません。彼らは言います。「皇帝のものです。」すると主は言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。

 「皇帝のものは皇帝に返しなさい」。もちろんイエス様は、「皇帝が絶対的な権威を持っているのだから、たとえ不本意であっても税は納めなくてはならないのだ」と言っているのではりません。むしろ逆なのです。「皇帝が絶対者であるわけでも、神に等しいわけでもないのだから、税を納めよ」と言っているのです。

 皇帝が銀貨に自分の肖像を刻ませているのは、明らかに支配力の主張です。皇帝が銀貨に「神の子ティベリウス」と刻ませているのは、明らかに神的権威の主張です。しかし、イエス様はこの世の権威とそれに関わる問題を完全に相対化しているのです。笑い飛ばしていると言って良いかもしれません。要するに、「ティベリウスが金に自分の肖像を刻ませて、この帝国はオレのものだと言っているなら、帝国のお金はオレのものだと言っているなら、返してやったらいいじゃないか」と言っているのです。銀貨に刻まれている肖像と権威の主張、それは大して重要な問題ではないのです。本当に聞くべき絶対的な意味を持つ言葉は別にあるからです。それが次に来るのです。主はさらに言われました。「神のものは神に返しなさい」。

 皇帝の肖像が刻まれている銀貨を「皇帝のもの」と呼んだ後に、イエス様は「神のもの」ついて語られました。それが何を意味するのかは、そこで聞いていた人には明らかであったに違いありません。皇帝の肖像ならぬ《神の像》が刻まれているのは――人間です。銀貨の肖像が帝国に対する皇帝の支配を表しているように、神の像が刻まれた人間の存在は、この世界に対する神の支配を表しているのです。この人間は神のものです。そして、この世界もまた神のものなのです。「神のものは神に返しなさい」――いわば納税の問題で罠にかけようとして主のもとに来た人々に、主が絶対的な意味を持つ問いを突き返したということでしょう。「そもそもあなたは神のものを神のものとして生きているのか。神のものが神に返されることを求めて生きているか」と問い返しておられるのです。

 私たちは確かに、「皇帝に税金を納めるべきか否か」という類の問題と日々向き合っています。目の前の問題について、判断を下さなくてはならないということが起こります。その判断が割れて対立が起こることもあります。しかし、本当に問われなくてはならないのは、「そもそもあなたは神のものを神のものとして生きているのか」ということなのです。

 実際、人間の根本的な問題は、神のものを神のものとして生きてはいない、というところにこそあるのです。すなわち、この世界が本来的に人間が所有している世界であるかのように生きている、ということです。そうして、人間はこの世界を濫用しているのです。自然を濫用し、国家権力を濫用し、与えられている隣人との関係を濫用し、親子の絆を濫用し、自分の人生を濫用しているのです。先ほど、この場面において、私たち人間の罪深さ、その底知れぬ暗黒を突きつけられていると申しました。そうです、人間は神に関わることさえ濫用するのです。

 「神のものは神に返しなさい」。――まず神に返すべきは、神の像が刻まれている人間自身です。人間というこの「神のもの」が神のもとに回復されねばなりません。イエス様は、そのために十字架へと向かっておられたのです。「神のものは神に返しなさい」とは口先だけの言葉ではありません。罪の中にある人間が、罪を赦されて神のものとして神の手に返されるために、イエス様は自らをなげうつ覚悟をもって語っておられたのです。そのことが実現するために、自らが犠牲を払うつもりでおられたのです。代価を払うつもりでおられたのです。そして、事実、主は代価を払われたのです。自分の命をもって!ですから聖書は私たちについて、「あなたがたは買い取られたのだ」と表現するのです。このように書かれています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(1コリント6・20)。

 私たちは、代価を払って買い取られた者として、かつてユダヤ人たちに語られたこの言葉を再び耳にしているのです。「神のものは神に返しなさい」。それゆえ、私たちの為すべきことは、恵みによって神のものとされた者として、自分自身を神に献げることであるに違い有りません。まず自分の体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」(ローマ12・1)神に献げるのです。それが私たちの礼拝です。

 
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