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「信じる者になりなさい」

2005年4月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 20・19‐31

●第一の日であり第八の日

 復活したキリストが弟子たちに現れたのは、「その日、すなわち週の初め の日の夕方」であったと書かれています。「週の初めの日」とは、私たちが 「日曜日」と呼んでいる日のことです。次に主が現れたの日は「八日の後」 (26節)と表現されています。これは「八日目」と訳しても良いのですが、 要するに「一週間後」です。やはり日曜日のことです。

 ここに「八日の後(八日目)」という表現が出てくることには大きな意味 があります。ご存じのように、ユダヤ人の安息日は土曜日です。週の7日目 です。これは天地創造物語で創造の業を終えられた神が7日目に安息された、 という話に由来します。ところがキリスト者は、極めて早い時期から、7日 目の安息日ではなくて週の一日目を「主の日」と呼んで、その日に集まるよ うになりました。現在でもそうしています。今日がその日です。

 そして、その週の一日目である主の日を、古代のキリスト者たちは、わざ わざ「第一日」ではなくて「第八日」と呼ぶようになったのです。面白いで しょう。なぜ「第八日」か、お分かりになりますでしょうか。神様の最初の 創造が第一日から第七日によって表現されているとするならば、第八日はそ れに属さない日だということです。新しい創造、新しい世界に属する日だと いうことです。つまりこの世にありながら、来るべき世を経験する日、新し い世界を経験する日だということです。そういう意味で「第八日」なのです。

 皆さん、今日お読みしました聖書箇所は、「週の初めの日」と「八日の後 (八日目)」について語っているのです。第一の日であり第八の日である 「主の日」の集まりが念頭に置かれていることは明らかです。つまり今日の 聖書箇所が私たちに伝えようとしているのは、単に「あの日にこんなことが あったんですよ」ということではないのです。「私たちが集まる主の日に、 いったい何が起こるのか」ということなのです。

 さて、今日から私は毎週ここにおいて皆さんと一緒に礼拝することになり ました。当面、世界の多くの教会が用いております、「改訂共通聖書日課」 に従って聖書箇所を選びたいと思っております。そして、イースターの次の 聖日の聖書箇所として与えられているのが、今日の聖書箇所です。私はこの 聖書箇所が、私の着任後最初の聖書箇所として与えられたことに大きな意味 があるように思います。繰り返しますが、この聖書箇所は、私と皆さんが毎 週共に礼拝をする「主の日」に何が起こるのかということを伝えているので す。そのことを確認すること、その恵みを共有することが、私と皆さんとの 教会生活のスタートになるのだと思うのです。そして、これから毎週、その 恵みを体験し、実際に味わっていきたいと思うのです。

●逃げてきた物の集まり

 それでは、御一緒に聖書の言葉に耳を傾けていきましょう。まず、「弟子 たちの集まり」が、当初どのように描写されているかに注目したいと思いま す。次のように書かれています。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たち のいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。これが弟子たちの集まりの最 初の姿です。それは《恐れのゆえに逃げてきた者の集まり》でした。その場 所は、恐ろしい世から逃れる場所でした。戸に鍵をかけて、閉じこもる場所 でした。

 キリストの弟子の集まりが、そのようなものとなることは、あり得ること です。教会が、そのような場所になってしまうということは、あり得ること です。彼らはユダヤ人たちの敵意にさらされていました。敵意にさらされる というのは恐ろしいことです。ですから互いに敵意を持っていない人々だけ で集まりました。敵意を持っている人に対しては、鍵をかけて入ってこれな いようにしました。

 そのようなことは今日にも起こり得ます。現代人が抱えているストレスの 多くは人間関係に由来します。人との関わりはやっかいです。ですから安全 な仲良しサークルを求めます。まさか日曜日に教会の戸に鍵をかけてしまう ことはしないでしょう。しかし、教会に様々な人が、やたらに入って来るこ とを望まなくなる、ということは起こるかもしれません。教会が心地よいこ ぢんまりした安全な仲良しサークルになることを望む、ということは起こり 得ることです。

 また、そこに集まっている弟子たちには、共通していることがありました。 みんなイエス様を見捨てて逃げたということです。皆が同じ弱さをさらけ出 しました。弱さをさらけだしたのが、自分だけでないというのは、ありがた いことです。他にも自分と同じような人がいると安心するものです。それだ けでも集まっている意味があると感じます。「オレも弱けりゃ、オマエも弱 い」「オレも罪人、オマエも罪人」。他の人の弱さを見て、罪深さを見て安 心し、ただ傷をナメあっているだけの集まり。教会がそのような集まりにな ってしまうということは、起こり得ることだと思いませんか。

 もし19節の前半までがすべてであるならば、教会は初めからそのような 集まりでしかなかっただろうと思います。しかし、聖書はその先を語るので す。あの時、弟子たちの集まりは19節の前半で終わらなかったのです。確 かに恐れがあったかもしれない。弱さもあったかもしれない。みんなそろっ て罪人であったかもしれない。しかし、それで終わらなかったのです。何と 書かれていますか。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに 平和があるように』と言われた」(19節)。そうです、弟子たちの集まり に復活したイエス様が来られるのです。それが主の日に起こることなのです。

●あなたがたに平和があるように

 主が来られて何が起こっているでしょう。20節を御覧ください。「そう 言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」 (20節)。ここには驚くべきことが書かれています。イエス様が復活して 現れたということではありません。もっと驚くべきことが書かれています。 「弟子たちは、主を見て喜んだ」ということです。本当なら、そんなこと考 えられないでしょう。主がお見せになったのは、手とわき腹です。そこには 大きな傷があるのです。主が苦しみ抜かれた十字架刑のゆえの傷です。皆さ ん、苦しんで死んでいった誰かが、その苦しみの傷跡を見せながら突然現れ たら、喜びますか。それは恐ろしいことではありませんか。しかも、弟子た ちはイエス様を裏切って見捨てているのです。手とわき腹を見せるというこ とは、まさに彼らの裏切り、彼らの過去の罪を突きつけているようなもので はありませんか。とても喜べる状況ではないでしょう。

 しかし、彼らは「主を見て喜んだ」と書かれているのです。なぜですか。 20節の「そう言って」という小さな言葉が重要なのです。主は「あなたが たに平和があるように」と言われたのです。罪を突きつけ、断罪することの できるはずのお方が、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。 そこにあるのは罪の赦しです。彼らは復活の主によって赦されたのです。

 これが主の日に起こることです。主の日に集まる時、復活の主が来られる。 そこでまずは罪が明らかにされ、罪の現実が突きつけられます。主にお会い するというのはそういうことです。手とわきを見せられるのです。しかし、 そのイエス様が、私たちにも「平和があるように。平安あれ。安かれ!」と 語ってくださる。すなわち罪の赦しが事実として起こるのです。

●トマスにも現れて

 さて、以上のように弟子たちについて語られてきたことを、さらに一人の 人物に焦点を当てて語っているのが、24節以下のエピソードです。

 ここにトマスという人が登場してまいります。彼は、他の弟子たちが「わ たしたちは主を見た」と言ったとき、「あの方の手に釘の跡を見、この指を 釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、 わたしは決して信じない」と言いました。これを読んで、トマスを単に合理 的な説明や実証を求めた人のように考えてはなりません。彼が単なる合理主 義者ならこんなことは言いません。他の弟子たちは「主を見た」と言ってい たのですから、せいぜい「私も主を見るまで信じない」と言うぐらいのこと でしょう。しかし、彼は「釘跡」と「わき腹の傷」にこだわったのです。そ れはなぜであるかを良く考えねばなりません。

 そもそも、彼はどのような人なのでしょうか。実は、トマスはイエス様と 共に死ぬつもりでいた人なのです。イエス様が危険なユダヤに向かおうとし た時、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11・16)と 言ったのはこの男です。そうです、そのつもりでいたのです。しかし、でき なかった…。彼は逃げてしまいました。そして、イエス様だけが死んだので す。十字架にかけられて死んだのです。

 トマスはその事実と真実に向き合った人です。トマスは単なる合理主義者 でもなければ、懐疑主義者でもありません。彼は精一杯真実であろうとした 人です。彼は自分の過去にしっかりと目を向けた人です。彼は、十字架のイ エス様の釘跡とわき腹の傷を忘れなかった人です。この世の中には、忘れて しまえば自分の過去の罪も消え去ってしまうかのように思っている人はたく さんいます。自分が忘れてしまえば過去はなかったことになると思っている 人はたくさんいます。トマスという人は、そんな人より、よほどまともな真 実な人間だと思います。彼は自分が主を見殺しにしたことを決して忘れない で生きようと思ったに違いありません。どんなに重かろうと、自分の罪責を 一生負い続けて生きようと思ったのでしょう。

 そんなトマスにとって、同じように主を見捨てた他の弟子たちが喜んで浮 かれている姿がどのように映ったか、考えてみてください。それは、まこと に赦しがたい姿であったに違いありません。「主を見た」などという言葉は 戯言としか聞こえませんでした。だから、「わたしは決して信じない」と言 ったのです。

 しかし、イエス様は、そのようなトマスにも現れてくださったのです。確 かにトマスの生き方は真実かもしれない。けれどイエス様は、トマスが一生 罪の重荷を負い続けて生きることを望まれなかったのです。トマスが考えて いたように、確かにその手には釘の跡がありました。決して過去が水に流れ て消えてしまうわけではありません。罪の事実は消えません。しかし、イエ ス様はトマスにも言ってくださったのです。「平和があるように」と。そし て、主は言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさ い。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者 ではなく、信じる者になりなさい」。

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。これはトマスを責める 言葉ではありません。主イエスの精一杯の呼びかけです。――「私は決して 信じない」なんて言って頑張っていなくていいんだよ。信じても、いいんだ よ。私が復活して、「安かれ」と言ってここ共にいることを、信じてもいい んだよ。――そう主イエスは言われたのです。  トマスは、イエス様によって赦され、平和を与えられた者としてそこにい るのです。トマスはそのことを信じた。だから、トマスはひれ伏したのです。 「わたしの主、わたしの神よ」。彼はもはやただ罪を負い続けて生きていく 人ではありません。キリストを主として、神として従って生きて行くのです。 これが第一であり第八の日である主の日に起こることなのです。

 そしてなお一つのことを申し上げて終えたいと思います。21節以下を御 覧ください。第一であり第八の日に起こるのは、ただ罪の赦しだけではあり ません。罪の赦しにあずかり、イエス様の平和をいただいた者は、さらに主 によって世に遣わされていくのです。丁度、最初の創造の時に、主なる神が 土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられ、「人はこうして生き る者となった」と書かれているように、この新しい創造に属する第八の日に おいて、イエス様は私たちに命の息を吹きかけてくださるのです。罪の赦し にあずかり、イエス様の平和をいただいた者は、聖霊に満たされ、新しい命 に満たされ、まことに「生きる者」となって、この世に遣わされていくので す。

 復活したイエス様が来られるならば、弟子たちの集まりは、もはや単なる 世からの逃れの場ではありません。教会は、もはや恐れに満たされて鍵をか けて閉じこもるような場ではありません。キリストが来られることによって、 私たちの集まる主の日の礼拝は、世に派遣されるための起点となるのです。 そうです、それこそが、第一であり第八の日である主の日に起こることなの です。

 
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