「神の愛による隔離」                           ホセア3・1‐5 2章後半の預言の言葉においては、ホセアとゴメルの個人的な関係は後ろに退き、主として神とイスラエルとの関係が語られておりました。しかし、3章に入りますと、再び預言者ホセアとゴメルとの関係が前面に出てまいります。1章においては、ホセアとゴメルの結婚と子供たちの誕生にまつわる事情が三人称で語られておりましたが、ここでは後の出来事がホセア自身の言葉として一人称で記されているのです。●行け、愛せよ 初めに1節と2節をお読みします。「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った」(3・1‐2)。 「告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」(2・4)。このようなホセアの怒りの言葉を、私たちは2章において耳にしました。ゴメルがホセアを裏切ったのですから無理もありません。しかし、本当にもはや妻でも夫でもないならば、ホセアはもはやゴメルについてこれ以上何も語る必要はないはずです。そして、怒りも嘆きもやがて過ぎ去ることになるでしょう。苦しみも過去のものとなるでしょう。しかし、事実はそう単純ではありません。彼が、かくも怒り、嘆き、そして語り続けるのは、ゴメルが今もなお彼の妻であるからです。淫行の女であっても、どれほど夫から心が離れても、ホセアにとってゴメルはかけがえのない妻であり、ホセアは彼女の夫なのです。それゆえに、怒りは大きく嘆きは深いのです。 そのような怒りと悲しみと苦悩の中において、彼は神の御声を聞いたのでした。それは、姦淫の女のようなイスラエルの民に対して激しく燃える神の怒りの言葉でありました。しかし、それはまた、さらに激しく燃える神の愛の言葉でもあったのです。ホセアは、神がそのようなイスラエルをなおも愛し続けていることを知ったのでした。神は、裏切られてもなお、イスラエルがまことの妻となることを望んでおられるのです。神の願いは、実にイスラエルが真の夫である神に立ち帰り、再び主を「わが夫」(2・18)と呼び、その口から姦淫の相手であるバアルの名が取り除かれることにあったのです。 御自分に背を向ける者たちを、なおもそのように激しく愛し続ける神の愛を知ったホセアは、再び主の御声を耳にします。それが今日読みました言葉です。主はホセアにこう言われたのです。「行け、夫に愛されていながら姦淫をする女を愛せよ」と。 彼はいつ、どのような状態において、この御声を聞いたのでしょうか。この時、ゴメルはどこにいたのでしょうか。詳しいことは分かりません。しかし、「行け」と言うのですから、もはやゴメルはホセアのもとにはいないことは確かです。彼は行って、銀15シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って、彼女を買い取るのです。彼女を買い取ったということは、彼女が奴隷のような状態にあったことを意味します。男を追って出て行った彼女は、落ちぶれて娼婦のようになっていたのでしょうか。当時の宗教的な事情を考えますと、バアル礼拝に仕える神殿娼婦になっていたことも考えられます。以前申し上げましたように、バアルは土地の所有者と考えられ、そのバアルと大地の女神アシェラとの性関係によって土地の作物が実ると考えられておりました。そこで、バアル祭儀においては、そのバアルとアシェラの関係が模倣され、聖所において神殿娼婦と礼拝者の間において性行為が行われていたのです。豊かさと欲望の満たしを求めた彼女が、最終的にはバアルの神殿娼婦になっていたことは、十分考えられることです。 いずれにせよ、そのように金銭を払って買い取らなくてはならないような惨めな状態にある淫行の女を、主はホセアに愛せよと命じられたのでした。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」。主はホセアに、ゴメルをあくまでも愛し抜くことを求められたのでした。その要求は、この世の常識的な見地からするならば、明らかに馬鹿げていると言えるでしょう。しかし、ホセアは神の命令に抵抗することはできませんでした。なぜなら、彼は神の心を知ってしまったからです。神が命じておられることこそ、まさに神が自らイスラエルに対して為しておられることであると、ホセアは知ってしまったからです。 「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように――」。干しぶどうの菓子というのは当時の贅沢品です。秋のぶどうの収穫祭において、バアル礼拝の祭儀に用いられたものです。このように、彼らは主との真実な関係を捨て、豊作と物質的な豊かさを求める祭儀に熱狂しているのです。彼らが顔を向けているのは、もはや夫である主に対してではなく、他の神々です。しかし、そのような彼らを、主はなお愛しておられるのです。この主の愛が、ホセアをゴメルのもとへと駆り立てます。こうして彼は、主の言われるように、淫行の女を買い戻しに行ったのでした。 彼は、ゴメルを買い受けるために銀15シェケルと大麦1ホメルと1レテクを支払います。全体で銀30シェケル分ぐらいでしょうか。もしそうならば、それは奴隷一人分の代価となります(出21・32)。いずれにせよ、はした金ではありません。ホセアは、かなりの犠牲を払ったことになります。彼は、本来ならば、憎むべき相手のために、あえて犠牲を払った上で彼女受け入れたのです。ホセアが、痛みと苦しみなくして、このことを為し得たとは思えません。実に「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。自分にとって好ましい人を受け入れるのに、痛みも苦しみも伴うことはないでしょう。しかし、愛するということは、痛みと苦しみ、そして具体的な犠牲を伴うのです。少なくとも、それが神のホセアに命じた「愛せよ」ということの意味するところでありました。そして、この愛こそ、神自らがイスラエルを愛する愛に他ならなかったのです。私たちは、この神の愛が最終的にどこに行き着くかを知っています。愛するということが犠牲を伴うことであるゆえに、その愛は、最終的には、神が自らの独り子を犠牲にするところに行き着くのです。このように、ホセア書の語る主なる神こそ、私たちにキリストを与え給うた神に他ならないのであります。●愛による隔離 さて、その先をお読みしましょう。彼女を買い戻したホセアは、彼女に語りかけます。 「わたしは彼女に言った。『お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる』」(3・3) このように、ホセアはまず、今までの生活からゴメルを引き離します。他の男との関係から隔離し、ただホセアとだけ共にいることを求めるのです。もちろん、こうしたからと言って、すぐにゴメルの心がホセアのもとに戻ってくるわけではないでしょう。それゆえ、この強制的な隔離は長い期間になることをホセアは知っているのです。そこでは並々ならぬ忍耐を要します。この期間はゴメルにとっても苦しみかもしれませんが、ホセアにとっても苦しみなのです。しかし、ホセアは、その長い期間、忍耐強く待つこと、苦しみつつ待つことを良しとするのです。「わたしもまた、お前のもとにとどまる」という言葉には、そのホセアの決意が感じられます。 こうしてホセアとゴメルの新しい生活が始まりました。そして、かつてホセアが自らの怒りの中において、神の怒りを知ったように、今、ホセアはゴメルと忍耐強く共に過ごす新しい生活において、神のイスラエルに対する計画を知ることになるのです。それゆえ、ホセアは、話をイスラエルに移し、このように言葉を続けるのです。 「イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす」(3・4)。 王も高官もなく過ごすということは、イスラエルが国家として崩壊することを意味します。国は滅びて民は異国の地に連れ去られ、捕囚となるのです。聖なる柱とは祭儀のための石の柱です。エフォドは儀式用の衣服です。テラフィムは小さな神像です。すべて、彼らが熱狂していたバアル祭儀に関わります。つまり、彼らが求めてやまなかったバアル礼拝そのものも、国家の滅亡と共に失われることになるのです。こうして、彼らがバアルに求めていた繁栄は、バアルと共に失われることになるのです。そのような状態は、2章においては「荒れ野」と表現されました(2・16)。それは、神がイスラエルをいざなって連れて行き、心に語りかける場所となる荒れ野であります。3章では、ホセアの生活の言葉をもって、同じことが表現されます。ここでは、姦淫の相手から引き離され、夫のみと共に過ごす新しい生活として語られているのです。 強制的にゴメルが連れ戻されても、心はすぐにはホセアに戻ってはこないように、強制的にイスラエルの民が神のみと共に過ごすようにされても、すぐにその心が神のもとに帰ってくるとは限らないことを、主はご存じであります。そうです、人はたとえすべてを失って、残されているのはただ神だけであったとしても、それで神に立ち帰るとは限らないのです。それゆえ主なる神もその期間を「長い間」と表現されます。捕囚は長い間になるでしょう。それはイスラエルの民にとって苦しみの時でしょうが、主なる神にとっても苦しみの時なのです。その間、主は忍耐しなくてはなりません。そして、主は長く忍耐強く待つつもりでおられるのです。たとえ長い期間の後であっても、彼らが帰って来て主を求めるその日を待ち続けられるのです。次のように語られている通りです。 「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」(3・5)。 さて、私たちはここで、得ることと失うことについて、深く考えねばなりません。何かを失うこと、奪われること、そのゆえに苦しむことを神の審判と処罰として理解することは簡単です。恐らくだれもが一度は考えることでしょう。しかし、ホセア書は全く異なる見方を私たちに示します。イスラエルが国家を失う捕囚の期間を、ホセアがしたように、神が自ら出かけて行って、犠牲を払って買い取り、忍耐をもって共に過ごそうとされる恵みの生活として見ているのです。 私たちは何かを得れば神に感謝し、これを神の愛と恵みの証しとしたがります。一方、何かを失えば怒りを発し、神にさえ悪態をつくこともあるでしょう。こうして、私たちはその時、自分が追い求めてきたのはバアルでしかなかったことを暴露するのです。それゆえ、私たちは、ここでホセア書が語っていることを、良く聞き取らねばなりません。彼らが苦難から解放され、繁栄を回復するその時が、神の買い取りの時なのではないのです。彼らが繁栄を失い、国家を失う時が、既に神が愛をもって彼らを買い取る恵みの時なのだ、とホセア書は語っているのです。 そして、そこで人は何かを失っているようでありますけれど、実は、絶対に失ってはならない一人の御方を得ているのです。失ってはならない夫である主なる神であります。私たちが、自ら犠牲を払って愛してくださる方、忍耐強く待っていてくださる方、本当に失ってはならない唯一の御方に対して目が開かれ、「その恵みに畏れをもって近づく」時、愛によって隔離された生活の意味をも知ることになるのであります。