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「人を背負われる神」

1996年12月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
イザヤ46・1‐4

 本年最後の主日礼拝となりました。本日与えられている御言葉はイザヤ書4 6章の冒頭です。ここから主の御言葉を聴きつつ、新しい年へと向かいたいと 思います。

 イザヤ書46章の預言の背景となっているのはバビロン捕囚という出来事で す。今から2500年以上前、紀元前六世紀のことです。紀元前586年、バ ビロニア帝国軍によって包囲されたエルサレムは最終的に陥落し、ユダ王国が 滅びました。そして、民の主だった人々はバビロンに連れ去られていきました。 これをバビロン捕囚と言います。実際には、十年ほど前に第一回目の捕囚があ ったので、これは二回目なのですが、これで完全に王国は滅びたわけです。

 今日お読みしたところにベル、ネボという名前が出てきます。これらは捕囚 民が連れて行かれたバビロニアにおいて祭られていた神々です。「ベル」は 「主人」を意味する言葉でありまして、当時のバビロニアにおいては「マルド ゥク」という神を指しますす。帝国の都バビロンには、このベルを祭る立派な 神殿がありました。「ネボ」は、ベルの息子です。学問の神とされていました。 その神殿はボルシッパという都市にあったと言われます。

 祖国を失った惨めな捕囚民が目にしたのはバビロニア帝国の繁栄と力であり ました。そして、それをもたらしたとされるベルとネボの立派な神殿であり、 華やかに繰り広げられる豪華な祭りだったわけです。特に、毎年新年になりま すと、これら神々のために大きな祭りがありました。バビロンからボルシッパ まで神々の行列行進が行われるのです。ベルの像、ネボの像が舟に乗せられて 運ばれるのです。そこに君臨するベルとネボの像、それらの姿は惨めな捕囚民 の心にしっかりと焼き付けられたことでしょう。ですから、捕囚民の内に帝国 の繁栄や力、そしてその中で祭られている神々に心惹かれていった者たちがい たとしても不思議ではありません。ここで預言者が語っているのは、そのよう な捕囚民の状況においてなのです。

 そのような背景を考えますときに、ここで語られている言葉はまことに驚く べき言葉であると気付かされます。彼は何と言っているでしょうか。

 「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。   彼らの像は獣や家畜に負わされ   お前たちの担いでいたものは重荷となって   疲れた動物に負わされる。   彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。   その重荷を救い出すことはできず   彼ら自身も捕らわれて行く。(1‐2節)」

 預言者を含め、捕囚民はいわば敗北者です。バビロニア人たちは勝利者なの です。彼らが現実に見ていたのは勝利者たちの姿であり、勝利をもたらしたと される神々の君臨している姿であったのです。そして、その力は誰の目にも絶 対であると見えたに違いありません。絶対に崩れそうになく、動かされそうに ない存在として目に映ったことでしょう。一方、捕囚民は力のない、将来も分 からない、希望も持ち得ない人々です。いわば屑のような存在、吹けば飛ぶよ うな存在なのです。しかし、その中にいた預言者は何を語ったのか。帝国の崩 壊と、神々の最後を語ったのです。

 厳密に言いますと、この預言は語られた通りには実現しませんでした。確か にバビロニア帝国は同じ世紀内に、ペルシャによって滅ぼされてしまいます。 しかし、ペルシャの王キュロスは被征服民の文化と宗教を重んじる王でありま した。ですから、キュロス王やペルシャ人たちによって祭りは継続されたので す。ですから、形としては、バビロニアの神々が「倒れ伏す」ことは、結局は なかったのです。

 しかし、預言というのは「占い」とは違います。見える形においてそれが 「その通りに起こった」ということよりも、そこに語られている本質的なメッ セージが大切なのです。そこには、あらゆる時代の人々がなお聴かなくてはな らない神のメッセージが語られているのです。それを聞き取らなくてはならな い。

 ここで「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」と語られています。人々が目 にしているのは絶対的な存在であるかのように君臨しているベルでありネボな のです。しかし、預言者は「倒れる」と言う。つまり、「あなたが絶対と思い、 心惹かれているそのものは、状況が変わればもはやあなたを支え得ないのだ」 ということです。「あなたが心惹かれて寄り頼んでいるものは、いざとなった ら『倒れ伏す』ようなものではないのか。獣や家畜に負わされて運ばれなくて はならないようなものではないのか。重荷にしかならないものではないか。共 に倒れ伏して絶望しか残さないものではないのか。」そのような問いかけがあ ると見ることもできるでしょう。そして、そのメッセージが聖書の中に残った のであり、私たちの手元にあるのです。

 それゆえ、私たちもまた、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す」というこ の言葉を、私たちの現実において聴かなくてはなりません。物事の本質は、危 機おいて、見えるものが崩壊していく中において、状況が激変する中において、 自ずと現れてくるものです。ナチによる収容所生活を経験したフランクルとい う心理学者はこう言いました。「絶望した人はだれも、絶望によって、また自 分が何かを偶像化したことを、知らずに示している。」まさにその通りです。

 今の時代、偶像の祭りに心惹かれる人はそれほどいないかも知れません。し かし、現代におけるベルやネボの類は依然として存在しています。人が様々な ものに心惹かれ、それらが最終的に自分を支え得るかのように思ってしまうと いうことは、捕囚民でなくても起こることです。財産が自分を支えてくれると 思う人、自分の能力こそ自らを支え得ると思う人、社会的な地位が自分を支え 得ると思う人、健康が自分を支えると思う人、他の力ある人が自分を支えてく れると思っている人。それがフランクルの言う意味で偶像化となっているかど うかは、それが状況の変化と共に何をもたらすかによって現れてきます。希望 をもたらすか、それとも絶望をもたらすかどうかによって現れてくるのです。

 目に見える世界は変わるのです。状況が変われば、能力が失われる時が来ま す。状況が変われば社会的な地位も失われます。健康だって失われることもあ るでしょう。いったいその時、何が残るのか。もしそれがベルでありネボの類 であるならば、それらは状況が変われば倒れ伏すのです。偶像であるならば最 終的には重荷としかならず、絶望しか残さない。それらが最終的に重荷にしか ならない、あるいは絶望しか残さないのは、それらが人を支えているようで、 実は人に支えられているからです。だから倒れるのです。そうです、偶像は本 質的に永遠に立ち続けることの出来ないものです。それがここで語られている ことなのです。

 しかし、預言者の言葉はそれで終わるのではありません。ベルやネボは状況 が変われば倒れ伏すものなのだ、と認識した上で聞くべき言葉があります。 「わたしに聞け」と語られる方がおられるのです。「わたしに聞け、ヤコブの 家よ イスラエルの家の残りの者よ、共に。 あなたたちは生まれた時から負 われ 胎を出た時から担われてきた。 同じように、わたしはあなたたちの老 いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。 わたしはあなたたちを造っ た。 わたしが担い、背負い、救い出す。(3‐4節)」

 これを聞いているのは「残りの者」です。いわば生き残りです。彼らの姿は 燃えかすのようなものです。彼らは国を失いました。多くの者は友人たちを失 い、家族を失い、財産を失い、社会的な地位を失い、民族としての誇りも伝統 も失ってしまった。何も無くなってしまった。燃えかすです。勝利者であるバ ビロニアの人人といかに違うことでしょうか。

 しかし、一つだけ彼らに残されているものがありました。それは「わたしに 聞け」と語ってくださるお方です。何が変わっても、変わらないお方がそこに おられるのです。その方が「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時 から担われてきた」と言われるのです。

 そうです、すべては何もないところから始まったのでした。人は裸で生まれ てきます。何も持たずに生まれてきます。イスラエルの歴史もまた同じでした。 神は何もないところからアブラハムを召されました。アブラハムが自らの力で 何かを築いたのではありませんでした。また、神は奴隷であったイスラエルの 民をエジプトから導き出されました。その時も、何もないところから始まった のです。裸で生まれました。そして、ただ神によって支えられてきたのです。 荒れ野を導かれたのもこのお方でした。養ってくださったのもこのお方でした。 彼らが久しく忘れていたこの事実を、神は今思い起こさせようとしておられる のです。

 私たちもこの言葉を聞かなくてはなりません。私たちが最終的に変わらずに 持ち得るのは、このように語りかけてくださる方との関係だけなのです。その 方こそ私たちを生まれ出た時から背負ってくださったお方だからです。教会が 誕生した時、それは裸で生まれました。教会が神を担ってきたのではありませ ん。生まれた時からただ神が背負ってくださいました。私たちの人生も同じで す。ただ神によって今日があるのです。自分で自分を生かしてきたのではない のです。私たちがしばしば忘れているこの事実を、私たちは思い起こさなくて はなりません。

 そして、生まれ出た時から神に背負われてきたのなら、これからもやはり同 じなのです。私たちは背負われていくのです。神御自身が言われます。「同じ ように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こ う。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

 捕囚民は老いてしまった民でした。壮年もいたかもしれません、若者もいた かもしれません。しかし、もはや希望もなく、力もないような人々でした。民 族が力を失い老いてしまうということは厳しい現実です。もちろん、一人の人 間の老いも厳しい現実です。もはや自分で自分を支えられなくなる。自分で希 望を生み出せなくなる。自分で立ち上がり、前に進んでいけなくなるのです。

 しかし、ここで話題になっているのは、人間がどうであるかではないのです。 翻訳には現れておりませんが、4節には「わたし」という言葉が五回繰り返さ れています。あえて訳するとこうなります。「あなたたちの老いる日まで、わ たしは同じ。白髪になるまで、わたしが背負って行こう。わたしがあなたたち を造った。わたしが担い、わたしが背負い、救い出す。」つまり、ここで問題 になっているのは、私たち人間のことではなくて、神様のことなのです。「わ たしが担い、わたしが背負い、救い出す」と言われるのです。私たちは、この 「わたしが」という言葉を聞かなくてはなりません。いつでも、私たち自身が 「わたしが、わたしが」と言い続けるのをやめて、神の言われる「わたしが背 負う」という言葉を聞かなくてはならないのであります。

 最後に、もう一つの事に心を留めて共に祈りましょう。4節に「背負う」と いう言葉が繰り返されていました。これは重い荷物を労苦して運ぶときに使う 言葉です。ということは、ここに神様の忍耐と労苦が表されているということ です。それは裏を返せば私たちは神様の「重荷」であるということを意味しま す。私たちは信仰者となって神様のために何かをしている者であるかのように 驕り高ぶっている時がありますが、私たちは本質的には神様の「重荷」でしか ありません。そして、それでよいのです。なぜなら、神様が労苦し忍耐し、痛 みを負いつつも、この重荷を「背負う」と言ってくださるからです。

 神様が背負ってくださるのは人の重さです。それは人間の罪の重さです。こ れを聞いていた捕囚民のことを考えてみてください。神の愛が分からず、神を 恨み、背を向け、虚しいものに心惹かれていた人々でした。いや、イスラエル の歴史を見るならば、彼らの頑なさは何も捕囚に始まったのではありません。 まさに生まれ出た時から頑なであり、神に逆らい続けてきたのです。神の心を 痛め続けてきたのです。しかし、主は彼らを「背負う」と言われるのです。私 たちにしても同じです。不真実で、自己中心で、神に逆らってばかりいる、ど うしようもない頑なな存在である私たちを、神は自ら苦しみつつ背負われたの です。そして、今も私たちの罪の重さを引き受けて、背負ってくださっている のです。

 神の労苦と忍耐はいかばかりであったか。私たちは新約聖書に目を転じると き、そこに描かれているイエス・キリストの姿を通して知らされます。そこに はむち打たれる神の子の姿があります。何度も打たれて、唾をかけられ、殴ら れ、着物をはぎ取られ、手足に釘を打たれ、十字架にはりつけにされて呪われ て死んでいく神の子の姿があります。ただ黙々と苦難を忍び、死んでいく神の 子の姿があります。そこに、ただ黙々と私たちを背負われる神の姿を私たちは 見るのです。そうまでして私たちを背負い給う神の姿を見るのです。

 一年がこうして終わろうとしています。この時、私たちが思うべきこともま た、この一年間背負われてきた私たちであるということであります。そして、 背負ってくださった方に心からの感謝を捧げて、この一年を終えたいと思うの であります。

 
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