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「神から出た行動」

1996年8月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
使徒言行録 5章12節~42節 「神から出た行動」

 本日は五章一二節からお読みいたしました。「使徒たちの手によって、多くの しるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。(使徒五・一二)」ここから一六 節までに、当時の教会の様子が短くまとめられています。今までにもこのような 当時の教会についての叙述をいくつか見てきました。特に、今日の箇所では、教 会において救いと癒しと解放の御業が顕著に見られたということが報告されてい ます。

 このような箇所は、私たちにルカによる福音書に記されていたイエス様の御業 を思い起こさせるのではないでしょうか。福音書においても、しばしばイエス様 のお働きが短くまとめられておりました。例えば、ルカ六章一七節以下にはこの ように書かれています。「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立 ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、 また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気を いやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしてい ただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、 すべての人の病気をいやしていたからである。」

 以前にも申し上げました通り、ルカによる福音書と使徒言行録は続きになって いる二巻本であります。その第一巻である福音書においては、聖霊の働きにおけ る神の御業は油注がれた方(ルカ四・一八)すなわちイエス・キリストを通して 現されております。そして、第二巻である使徒言行録においては、同じ御業が、 使徒たちを通して、つまり教会を通して現されているのであります。イエス様は 現れて神の国の福音を語られました。イエス様において、癒しの奇跡、解放の御 業というものは、神の国の福音に伴うものでした。すなわち、神の国のしるしで ありました。ですから、当然、本日の箇所に書かれている、教会においてなされ た癒しの御業も、それ自体が救いなのではなく、神の国のしるしであります。完 成された神の国を指し示すしるしであります。私たちの希望である復活の世界を この地上において現しているのが、このような癒しと解放の御業なのです。

 ですから、ここに書かれていることは何ら奇異なことでも特殊なことでもあり ません。世界的に見るならば、聖霊が神の国のしるしとして今でも為しておられ ることでありまして、何ら珍しいことではないのです。そして、私たちもまた、 教会を通してキリストが宣べ伝えられるところに、聖霊の御業である神の国の現 れを、もっともっと期待してよいと思うのです。それは狭い意味において病気が 癒されることだけでなく、私たちの人生において、私たちの家庭において、私た ちの職場や学校や地域社会の交わりにおいて、この国家において、福音の宣教に 伴って神様の恵みの御支配が現れること、復活の世界が現実のこととして経験さ れることを期待して、求めるべきだと思うのであります。

  ○

 さて、そのように神様は彼らの間で、神の国のしるしとして救いと癒しと解放 の御業を現されました。しかし、ここで大切なことがあります。このような神の 御業が現れるということは、必ずしも彼らにとってこの世的な幸い、安泰な生活 をもたらすことはなかった、ということであります。多くの民衆は教会に対して 好意を持っていました。しかし、そのような中で、彼らは新しい困難に直面する ことになるのです。もう既に四章において、その困難な状況の始まりを私たちは 見てきました。あの時は、ペトロとヨハネが捕らえられ、脅迫されたのです。今 日お読みしましたところでは、他の使徒たちも含めて捕らえられてしまいました。 恐らく一二使徒全員が捕らえられるという最悪の自体を迎えたということでしょ う。「そこで、大祭司とその仲間のサドカイ派の人々は皆立ち上がり、ねたみに 燃えて、使徒たちを捕らえて公の牢に入れた。(一七‐一八節)」このように、 事態はますます悪くなっていくのであります。

 私たちは、彼らの経験を私たち自身に当てはめてみる必要があります。私たち が、自分の平安と喜びだけのために信仰生活をするならば、そのこと自体から何 ら困難が生じることはないでしょう。私たちが、人間の願うことを人間の力だけ に頼って為している内は、信仰者として歩むことはそれほど難しいことではない かも知れません。(もっとも、そのような人を信仰者と呼ぶべきかどうかはまた 別の問題ではありますが。)しかし、私たちが、神の願うことを自らの願いとし、 神の御業が私たちを通して現されることを期待し、神の救いの業が現され、神の 国の麗しさが現されることを祈り求め始めるならば、私たちは必然的にキリスト の御足の跡を行くようになるのです。つまり、十字架を負うことになるのです。 キリストがかつて弟子たちに言われたように、自分を捨て、自分の十字架を負っ て従って行くことになるのです。

 彼らにとって、負うべき十字架とは何だったのでしょうか。それはまず、妬み に燃えた大祭司やサドカイ派、宗教的な権威者たちの迫害の中で、御言葉を語り 続けることでありました。「命の言葉(二〇節)」を語り続けることでありまし た。また、迫害に堪え忍びながら、迫害する者たちを愛することであり、迫害す る者たちにも救い主であり導き手であるキリストを証しすることでありました。 私たちはどうでしょう。彼らと同じような迫害は経験しないかもしれませんが、 やはり私たちにも負うべき十字架が与えられるのであります。既に与えられてい る人もあるでしょう。このように、神の国を求め、神の御業を求め始めるならば、 必然的に私たちは自分を捨てさせられることになり、十字架を負うことになるの です。

 しかし、私たちは、そのような事実を、ただ悲壮感のみをもって受け止める必 要はありません。今日の聖書箇所には、非常に厳しい現実が記されているはずな のですが、悲壮感のかけらも見ることができません。なぜなら、その厳しい現実 の中に神の命が溢れているからであります。人間的に見るならば危機的状況にお かれているまったく無力な彼らなのですが、その内から神の命が溢れ流れている のを私たちは見るのです。そして、神から出たその命の運動を、どのような外的 な力も潰すことはできないという事実を見るのであります。

 確かに、サドカイ派の人々、大祭司とその仲間たちは、使徒たちを力づくで捕 らえることはできました。牢屋に入れることはできました。最高法院の裁きの場 に引き立てることはできました。大祭司の権威をもって「キリストの名によって 教えてはならない」と脅迫することはできました。最終的に彼らを殺すことを決 定することも可能でした。使徒たちを呼び入れて、鞭打ちの刑に処することもで きました。事実、彼らは使徒たちを彼らの慣行に従い三九回の鞭打ちに処したの でしょう。それが、大祭司たちの持っている力であり、世が教会に対して持ちう る力でありました。

 しかし、無力な教会の内には神の命がありました。それゆえ、権力者たちは教 会から神の言葉を奪うことはできませんでした。命の言葉の宣教を止めることは できませんでした。二五節の言葉はなんとこっけいな彼らの姿を表していること でしょうか。「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民 衆に教えています。」そして、彼らはどのような力をもってしても使徒たちの喜 びを奪うことはできませんでした。釈放された使徒たちについて何と書かれてい るでしょうか。四一節以下を御覧ください。「それで使徒たちは、イエスの名の ために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、…メシア・イエスについて福 音を告げ知らせていた。」彼らは世から見るならば無力です。彼らは捕らえられ る時、抵抗することはできませんでした。鞭打たれる時も抵抗することができま せんでした。しかし、彼らは敗北者ではありませんでした。その現実を喜ぶこと さえできる底力が与えられていました。これが信仰による真の命の現れでありま す。神の命の現れなのであります。それが最終的に、ファリサイ派の指導者であ るガマリエルをして次のように言わしめたのでした。「そこで今、申し上げたい。 あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間か ら出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすこ とはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。 (三八‐三九節)」

  ○

 さて、私たちは、この出来事を初代の教会のみが経験し得た特殊な出来事であ るかのように思ってはならないのであります。彼らの神は私たちの神であり、彼 らの受けた霊は私たちの受けた霊であり、彼らの与った命は私たちが与った命で あるからです。私たちは、彼らの宣べ伝えていた「命の言葉」を聞いたのであり、 その命の言葉を通して命に与ったからであります。私たちが信仰をいただいたと いうことはそういうことです。単に聖書を勉強して考え方が少々変わったという ことでも、何らかの悟りを得たということでもないのです。そのようなものは、 所詮、下からのもの、人から出たものに過ぎないのです。私たちが与ったのは、 そうではなくて、上からのもの、神から出たものなのです。神からの霊を受け、 神の命に与って今日あるを得ているのであります。では、どうしたら、彼らのよ うに満ちあふれる命の現れをもって生きることができるのでしょうか。

 そこで気付かされるのは、彼らが十字架を担いゆく姿勢であります。彼らは何 の変哲もないただの人でした。弱い人々でした。しかし、彼らは迫り来る困難か ら逃げようとはしなかったのです。安易な解決を求めなかったのです。むしろ、 そこにおいて神の御業が現れることを期待して立ち向かったのであります。

 その姿は、彼らの祈りに顕著に現れていました。既に四章において私たちが見 てきた通りです。ペトロとヨハネが脅迫を受けた時、彼らは、「主よ、この危機 から逃れさせてください」と祈ったのではありませんでした。彼らは、こう祈っ たのです。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切っ て大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。(四・二九)」神様は、 この祈りに答えられたのでした。使徒たちが獄中から奇跡的に助け出された時に も、彼らは次のような言葉を聞いています。「行って神殿の境内に立ち、この命 の言葉を残らず民衆に告げなさい。(五・二〇)」これは驚くべき言葉でありま す。天使たちの助けというものが具体的にどのような形でなされたのかはよく分 かりませんが、これは少なくとも奇跡的に助け出された人に語られるべき言葉で はないでしょう。「助け出して上げるから、もう二度と捕らえられないように遠 くへ逃げなさい」と言うのなら話は分かります。しかし、そうではないのです。 「戻って行きなさい」というのです。厳しい現実、戦いの中へと戻って行きなさ い、というのです。そこに留まりなさい、ということであります。逃げてはいけ ないのです。そして、彼らはこの言葉に従ったのでした。「これを聞いた使徒た ちは、夜明け頃境内に入って教え始めた」と書かれています。すべてを委ねて、 その危機の中に留まったのであります。そこに留まって、御言葉を語ったのです。

 私たちは、彼らの姿を思いますときに、パウロもまた次のように言っているこ とを思い出します。コリントの信徒への手紙第二、四章七節以下を御覧ください。 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れ て偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかに なるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れ ても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わた したちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れ るために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされてい ます。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。(2コリント四・七‐一 二)」イエス様の死を身にまとうとき、イエス様の命は現れるのです。それは、 言い換えるならば、与えられた十字架を担い行くときに、イエス様の命が現れる ということであります。

 私たちの信仰生活において、自分の平安や喜びを追求しているだけでなく、私 たちを通して神の御業が現れ、誰かが救われ、癒され、解放されることを求める なら、私たちには負うべき十字架が与えられることでしょう。神の国の麗しさが 現れることを本気で求めていきますならば、自分を捨て、自分の十字架を負って、 キリストの御足の跡を従わざるを得ないようになるでしょう。その時、私たちは 逃げてはならないのであります。安易な解決や助けを求めてはならないのです。 諦めによっていやいやながら担うのでなく、神の御業が現れることを期待して十 字架を担いゆく時に、そこにキリストの命が現れるのであります。なぜなら、私 たちの内には、彼らと同じように、既に神の命が与えられているからであります。

 
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