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「神への叫び」

1996年8月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
使徒言行録 4章23節~31節

 「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言っ たことを残らず話した。(二三節)」本日は、ここからお読みいたしました。

「二人」とはペトロとヨハネです。「釈放されると」と書かれているのは、彼ら が捕らえられていたことを意味します。ここまでのいきさつを思い出してくださ い。彼らが捕らえられたのは、民衆にイエス・キリストを宣べ伝えていたからで した。そのことに苛立ちを覚えたユダヤの権力者たちは、正規の手続きを経ずし て彼らを捕らえ、投獄したのです。そして、四章の前半には、議会において取り 調べを受けている様子が記されていたのでした。

 これは、誕生してまだ日の浅い教会にとって初めて直面した危機的状況であり ました。これからという大切な時に、教会の中心的な指導者であったペトロとヨ ハネが捕えられ、脅迫を受けることになったのですから。それが、よりによって、 ペトロが民衆にイエス・キリストを宣べ伝えたことから迫害が始まったのであり ます。ペトロが公にキリストを宣教し始めたことは、明らかに神の御心に適った ことではなかったでしょうか。にもかかわらず、そのことが大きな困難を招来し たのであります。教会の揺籃期における大事な時に、外からの圧力を招くことに なったのです。人間の目から見るならば、最も望ましからぬことが起こったとい うことです。

 私たちは、この事実をまず心に留めなくてはなりません。神に従うことは、必 ずしも全てが順調に進められていく、順風満帆の行程を意味しません。神の御心 に従っているのだからと言って、すべての障害が取り除かれ、平坦な道を進める とは限らないのです。むしろ、新たなる困難に直面することがあるのです。例え ば、私たちが真剣に周りの者の救いを祈り、福音を伝えようとするならば今まで 経験しなかった困難を経験することになるかも知れません。他者の救いに無頓着 であり、自分の平安のみを追い求める信仰生活をしている時には経験しなかった 苦しみや重荷を負わなくてはならないかも知れないのです。同様に、神様の望ま れる教会を真剣に祈り求める時に、思わぬ壁に直面することがあり得ます。私た ちが、神様の望まれる素晴らしい家庭の姿を祈り求め始める時、様々な問題に向 かわなくてはならないことがあるのです。私たちが、自分の人生の中に神の御心 が成ることを真剣に祈り求め始めるならば、今までにない葛藤と戦い、様々な苦 しみを経験するかも知れません。神様を信じ、従うことは、必ずしも安泰な生活 を約束しないのです。

 一方、逆のこともまた言えるでしょう。私たちが問題を抱えて悩む時、それは 必ずしも神様が私たちを見捨てたことを意味しません。私たちの行く手に大きな 障害がある時、それは必ずしも神様が手を引かれたことを意味しません。私たち が葛藤や苦しみを経験する時、それは必ずしも神様が離れてしまったことを意味 しません。初代教会が権力者からの脅迫を経験した時、それは人間的には大きな 問題を抱えたことではありましたが、そこから彼らの新しい一歩が始まったので す。問題があること自体は問題ではありません。要は、問題に直面した時にどう するのか、ということなのです。問題の中での人間のあり方こそ大きな問題なの です。

 そこで、彼らはどうしたのでしょうか。二人は、釈放されると仲間のところへ 行きました。そして、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話しました。 ペトロたちは、人々を不安にしないために事実を押し隠すようなことはしません でした。問題を共有しました。ですから、望ましからぬ事態が発生したことは誰 の目にも明らかでした。そこで彼らはどうしたのでしょうか。神に祈ったのです。 心を一つにして祈ったのです。

 この世の人々にとって八方塞がりは絶望を意味します。しかし、信仰者にとっ て、八方塞がりは天が開いていることを意味します。天は開いているのです。私 たちはそのことを絶対に忘れてはなりません。私たちには祈ることができるので す。

 では、彼らは何を祈ったのでしょうか。どのように祈ったのでしょうか。私た ちはさらに、彼らの祈りの言葉に耳を傾けたいと思います。彼らは、神に向かっ て声を上げ、叫びました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにある すべてのものを造られた方です。あなたの僕であり、また、わたしたちの父であ るダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました。『なぜ、 異邦人は騒ぎ立ち、/諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこ ぞって立ち上がり、/指導者たちは団結して、/主とそのメシアに逆らう。』事 実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒に なって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現す るようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行った のです。(二四‐二八節)」

 ここに彼らの祈りの姿勢を見ることができます。祈りとは、まず神へと目を転 じることから始まります。直面している問題の大きさではなく、神の偉大さに目 を向けるのです。彼らは大声を上げて天地の創造主であるお方への信仰を告白し ます。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造ら れた方です。」彼らを脅迫しているのがどれほど権力を持つ者であっても、所詮 神の被造物に過ぎません。彼らを取り巻く状況も、被造物世界の出来事に過ぎな いのです。

 私たちもまた、祈りにおいてそのことをしっかりと捉えておく必要があります。 世界があって神があるのではありません。人間があって神があるのではありませ ん。神がおられて世界があり、人間があるのです。 私たちが経験していること は、すべて造られた世界での出来事なのです。所詮、被造物世界での出来事なの です。しかし、小さな一円玉でありましても、目の前に置くならば、それが世界 の全てを覆い隠して見えなくするように、造られた世界の小さな出来事に過ぎな いことでも、その渦中にいてその出来事しか見えていないならば、そのことで頭 がいっぱいになってしまいます。それが往々にして私たちが陥る状態です。私た ちは目を転じなくてはなりません。創り主の偉大さに目を向ける時に、この世の 出来事の見え方が変わってくるのです。それが祈りの始まりなのです。

 そして、彼らはさらに歴史の支配しておられる方としての神を仰いで祈りまし た。この同じエルサレムにおいて、イエス様は十字架にかけられました。「事実、 この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になっ て、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。」しかし、あの恐る べき出来事でさえ、神の御手の外において起こったのではありません。彼らは詩 編第二編の言葉を引用して、その事実を確認するのです。そうです、すべては既 に聖書において語られていたことなのです。神が無力ゆえに、神の力の及ばない ところにおいて起こった出来事ではないのです。すべては神の御手の内にありま した。だから、彼らは、権力者の脅迫について耳にしても、それで意気消沈した り、落胆したり、不必要に恐れたりしないのです。どんな厳しい状況であっても、 決して神の御手の外にあるのではないからです。私たちはこのことを忘れてはな りません。私たちを飲み込まんとする苦難も痛みも悲しみも、私たちの前に立ち はだかる障害も困難も、決して神の視野の外にあり、神の力の及ばないところに あるのではないのです。

 それゆえ、彼らは全幅の信頼をもって、さらに神に叫び求めます。「主よ、今 こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語る ことができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名に よって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。 (二九‐三〇節)」

 「彼らの脅しに目を留めてください!」この祈りの言葉は、私たちに旧約聖書 に出てくるヒゼキヤ王を思い起こさせます。ユダの王ヒゼキヤの治世に、アッシ リアの王センナケリブが攻め上ってきました。列王記下一八章以下に記されてい る出来事です。アッシリアはユダの町々を占領し、さらにはユダの都エルサレム にまで勢力を延ばしてきました。そして、センナケリブの使者ラブ・シャケのも とからヒゼキヤのもとに脅迫状が送られてきたのです。「ユダの王ヒゼキヤにこ う言え。お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手 に渡されることはないと思ってはならない。お前はアッシリアの王たちが、すべ ての国々を滅ぼし去るために行っていることを聞いているであろう。それでも、 お前だけが救い出されると言うのか。…(列王下一九・一〇以下)」ヒゼキヤ王 はどうしたでしょうか。次のように書かれています。「ヒゼキヤはこの手紙を広 げ、主の前で祈った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。 あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたこそ天と地をお造りになっ た方です。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて御覧ください。 生ける神をののしるために人を遣わしてきたセンナケリブの言葉を聞いてくださ い。…』(列王下一九・一四‐一六)」

 私は時々、この「ヒゼキヤはこの手紙を広げ」という言葉を思い起こします。 彼がしたことは、現状を神の前に広げて訴えることでした。「どうぞご覧くださ い」と訴えることでした。私たちも、すべてを神の御前に広げたらよいのです。 厳しい現状を神の御前に広げて、「どうぞご覧ください」と祈ったらよいのです。 迫害を受け始めた初代の教会がなしたことも同じです。彼らは脅迫されている現 状を、まず神の御前に広げるのです。「彼らの脅しに目を留めてください!」私 たちもそのように御前に広げたらよいのです。なにも自分で問題を抱え込んでい なくてよいのです。

 その上で、彼らは祈ります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を 語ることができるようにしてください。」彼らは、脅迫されているという現状を 神に訴えて、「そこから逃れさせてください」と祈ったのではありませんでした。 また、「脅迫がなくなるように」と祈ったのでもありませんでした。彼らが求め たのは困難を取り除かれることでも、困難から逃れることでもなかったのです。 御心に従って立ち向かえるようになることを求めたのであります。恐れから完全 に解放されて、立ち向かえるようになることを求めたのであります。神様の御心 は、教会が御言葉を語り伝えることです。信仰者が福音を語れるようになること です。ですから、彼らはどんな厳しい状況にあっても、恐れから完全に解放され、 厳しい現実に立ち向かい、神の望まれるように御言葉を大胆に語れるようにと祈 り求めたのであります。

 そして、彼らはさらに祈ります。「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名 によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」 「御手を伸ばしてください!」それが彼らの求めでした。神御自身が手を伸ばし てくださることを祈り求めたのであります。神様が生きて働き給うことを求めた のです。主イエスの名によってなされる癒しや奇跡は神の国のしるしです。それ 自体が救いなのではありませんが、それはキリストと共に到来し、やがて完成さ れる神の国を指し示すしるしであります。彼らは、困難から逃れるために奇跡を 求めたのではありませんでした。そうではなくて、困難な現実の中で、神御自身 が神の国の麗しさを現してくださることを求めたのです。彼らが福音を伝えるに 伴い、キリストの権威と力が誰の目にも明らかになるよう現されることを祈り求 めたのであります。

 私たちは、神が御手を伸ばしてくださることを祈り求めるべきであります。私 たちの内に、また私たちを通して、神の御業がなされることを祈り求めるべきで あります。それは、私たちが苦難から逃れるためではありません。困難な状況を 回避するためではありません。安易な問題の解決を求めることでもありません。 そうではなくて、どのような状況にありましても、福音が宣べ伝えられるためで あります。神の国が指し示されるためであります。神の支配の現実が現されるた めであります。キリストの権威と力が現され、キリストが証しされるためであり ます。すべては神の救いのご計画が押し進められ、神の栄光が現されるためであ ります。そのことが脅迫を受けた初代教会においてなされていきました。私たち の内にもなされていかなくてはなりません。

 彼らの祈りに神様は答えられました。「祈りが終わると、一同の集まっていた 場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。(三一 節)」祈りの答えは聖霊の満たしでした。神の御霊が彼らの内に満ち満ちて、彼 らを通して神が力強く働き始められたのです。教会を取り巻く状況はまだ何も変 わってはいません。しかし、既に神の御業は始まっているのです。彼らの内に始 まっているのです。私たちもまた、彼らと同じように祈り、自らを明け渡して、 神の御心がなされること、神の御業が現れることをひたすら求めるならば、神様 は私たちの祈りに対して聖霊の満たしをもって答えてくださることでしょう。ど のような状況にありましても、困難から逃げないで、神様が私たちを 霊 に満 たして用い給うことを期待して、祈り求め続ける者でありたいと思います。

 
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