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「命への導き手」

1996年6月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 3章11節~26節

 本日お読みしたところには、使徒言行録におけるペトロの二回目の説教が記さ れていました。今日は、特にその前半一九節までのところに重点を置いて共にお 読みしたいと思います。

 さて、この説教は、エルサレムの神殿における「ソロモンの回廊」と呼ばれる ところにおいて語られました。大勢の民衆が、そこにいたペトロとヨハネのもと に集まってきたのです。なぜ集まってきたかと申しますと、生まれながらに足の 不自由だった一人の男が奇跡的に癒されたからです。事の顛末は先週お読みした 三章一節から一〇節までに書かれておりました。大変不思議な出来事ではありま すが、このような癒しの業は、歴史を通じて世界各地の教会において見られるこ とでありまして、使徒たちの時代に固有の出来事ではりません。キリストは今も 病を癒されますし、力ある御業をなされます。このような癒しの業は神の国のし るしですので、今日、この場においても起こり得ることであります。

 しかし、大切なことは、この男に起こったことは、肉体の癒し以上のことだっ たということです。彼は、「躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回っ たり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った(三・八)」と いうのです。先週もお話ししましたように、彼は、神の恵みは自分とは無縁だと 思っていた人でした。自分は呪われている者であると思っていたのです。それゆ え、もはや何も新しいことは期待できない、希望を失った人だったのです。しか し、今や、彼は神を賛美して生きる者と変えられました。その人生が根底から変 えられました。

 人間が変えられるということは、肉体の癒しや困窮からの解放以上の奇跡であ ります。そして、それは、誰もが経験し得る奇跡なのです。病気の癒しは、病人 でなければ経験できないでしょう。そして、病人が必ずしも癒されるとは限りま せん。この肉体は最終的には朽ちるのですから。しかし、この人の人生に起こっ た奇跡の本質は、誰もが経験し得るものなのです。諦めに生きていた人が、神へ の期待と永遠の希望をもって生きるようになります。死と墓に向かっていた人生 が、命へと向かうようになります。欲望に導かれていた人が、神の栄光のために 生き、永遠の世界へと向かって生きるようになります。喜びを失っていた人が、 神に向かって喜び躍る者へと変えられるのです。小学校四年生の時から麻痺した 水野源三さんの体は、ついに亡くなるまで癒されませんでした。しかし、彼は次 のような詩を書いているのです。「悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう/ お前 が来なかったら つよくなかったなら 私は今どうなったか/ 悲しみよ悲しみよ

 お前が私を/ この世にはない大きな喜びが/ 変わらない平安がある/ 主イエス 様のみもとにつれて来てくれたのだ(悲しみよ 水野源三)」ここに大きな奇跡 があり、キリストの御業があります。あの足の不自由だった人にしてもそうです。 彼は、四十歳を越えていたと書かれています。四〇年以上の無駄に失われたかの ように見える悲しみの日々があったのです。しかし、その過去は彼をもはや不幸 にすることはできません。キリストによって、彼は造り変えられ、神を誉め讃え る人にされたからです。もはや過去は問題ではありません。永遠に神と共に歩む 人生が始まったからです。

 それは外見的にはペトロという一人の人を通して起こりました。しかし、ペト ロは自分がただキリストの恵みの通路に過ぎないことをよく知っていました。で すから、集まって来た人々に言うのです。「イスラエルの人たち、なぜこのこと に驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を 歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。(一二節)」ペト ロはただ人々の目をキリストに向けさせようとするのです。人に目を向けている 限り、そこからは救いは来ないからです。要は、キリストとの関係なのです。

 教会に来て、私たちがどれほど信心深い敬虔な信仰者に出会ったとしても、そ こからは救いは来ません。人の姿に驚いても、感動しても、それはその人の救い とは直接的には関係ありません。逆のことも言えるでしょう。たとえ教会で誰か の姿に幻滅したり失望したりしても、それによって自らの救いの事柄が左右され るならば、それは大変愚かなことです。救いに関わるのは、あくまでもキリスト との関係だからであります。

 ですから、ペトロは、この癒された男についても次のように語るのです。「あ なたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その 名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこ の人を完全にいやしたのです。(三・一六)」一方で、「イエスの名が強くした」 と言い、他方で、「イエスによる信仰が…いやしたのです」と言っています。働 き給うたのはイエス様御自身です。しかし、この男はキリストの恵みを「信仰」 によって受け取ったのです。

 ペトロは、彼に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩 きなさい」と命じたのでした。この人が、「馬鹿なことを言うな!」と言って、 イエスの名を拒否したならば、この人の足は癒されたでしょうか。彼の人生も変 えられることなく、神殿の前に運ばれて置かれているだけの、相変わらず希望の ない日々を送ることになっただろうと思うのです。しかし、ペトロが彼の右手を 取って立ち上がらせようとしたとき、彼はペトロの助けを受けて、イエスの名を 信じて、救いの恵みを受け取ったのであります。それは、まさにペトロを通して、 神が手を伸ばしてくださったと言うこともできるでしょう。エミール・ブルンナー という神学者は、「信仰とはイエス・キリストにおいて差し出された神の手を握 ることだ」と表現しました。まさに、彼は、イエスの名を通して差し出された神 の手をしっかりと握ったのであります。心を開いて恵みを受け取った。すると救 いの奇跡が起こったのです。キリストの名が彼を強くしたのです。

 さて、ペトロの願いは、この人に起こったことが、他の多くの人々にも起こる ことでありました。すべての人がキリストの名によって真の命に生きるようにな ることであります。そのためには、何が問題であるかが明らかにされなくてはな りません。そこでペトロは一三節以下を語り始めます。どうぞご覧ください。  「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その 僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引 き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。 聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。(三・一三 ‐一四)」

 このように、ペトロは、人々の目を自分たちからイエス様御自身へと向けさせ ます。人々の目の前で起こった出来事は、ペトロたちの力によるのではなくて、 神がその僕イエスに栄光を与えられたのだ、と言うのであります。「僕」という 言葉は、恐らくイザヤ書五二章一三節から来ているのでしょう。「見よ、わたし の僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」これは、いわゆる「苦 難の僕の歌」と呼ばれる部分の冒頭でありまして、教会ではイエス様を指し示す ものとして読まれてきた箇所であります。そこに歌われていますように、イエス 様は十字架を経て復活し、神の権威の座に上げられたのです。そのイエスの栄光 がこの癒しの奇跡の中に現されたのだ、とペトロは言っているのです。

 そして、そのイエスこそ、あなたがたが拒んだ方に他ならないのだ、と彼らに 語るのであります。「あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しよう と決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、 人殺しの男を赦すように要求したのです。」彼らの罪を彼らの目の前に突きつけ るのです。しかし、ペトロはただ単に、彼らが正しい人を十字架につけるという 悪を行った、ということを責めているのではありません。彼らがイエスを拒否し、 十字架につけたということは、とりもなおさず、「命への導き手」である方を殺 してしまったことを意味するのだ、と言っているのです。

 「命への導き手」、それは他の翻訳では「いのちの君」「命の創始者」などと 訳されている豊かな内容を持つ言葉です。イエス様は、神の愛を示し、神との豊 かな交わりの中にある真の命、永遠の命を見せてくださった方でした。そして、 神との愛の交わりにある命へと導くために、イエス様は来られたのです。イエス 様はヨハネによる福音書においてもこのように言っています。「わたしが来たの は、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ一〇・一〇)」 しかし、人々はイエス様を抹殺したのです。命への導き手を退けて殺してしまい ました。なぜでしょうか。様々なことが言い得るでしょうが、要するに、イエス 様によって、彼らの信念や立場、彼らの生き方の土台が揺さぶられたからであり ます。自分の持っている宗教観、自分の持っている人生観、自分の持っている世 界観、それらがすべて揺さぶられたのであります。真の命を得るためにそれはど うしても必要なことでした。しかし、彼らはイエス様を退けたのです。彼らは自 分自身にしがみついて、イエス様の方を抹殺したのであります。

 ここに彼らの頑なさと傲慢さの問題を私たちは見るのです。しかし、これは他 人事ではありません。ここに今日の私たち自身の問題を見せられるのです。人間 の根本的な罪は、その頑なさであり傲慢さであります。命への道を自らが持って いると思っていることは傲慢なことなのです。自分の意志と力で、自らを真の命 へと導けると考えているならば、あるいは家族を子供たちを真の命へと導けると 思っているならば、それは恐ろしく傲慢なことなのです。実際、命へとは向かっ ていないのです。その傲慢さの結果、罪に支配され、悪魔に支配され、自らの欲 とエゴイズムに支配され、命から遠ざかっている自分を見出すに至るのです。そ れが現実の我々人間の姿であります。

 彼らは、命への導き手を拒んで殺してしまいました。しかし、「神はこの方を 死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」 とペトロは言います。人はその罪によって神の恵みを退けました。しかし、神は 人間の罪よりも力ある方です。その力ある方は、彼らを見捨ててはおかれません でした。神はこの世界を見捨ててはおられません。神様は、拒まれ殺されたイエ ス様を復活させ、永遠に命の導き手なる方として、永遠の主として立ててくださっ たのです。ここに神の恵みの勝利があります。そのキリストは、現に彼らの目の 前で、一人の人を造り変え、真の命に生かし給うたのです。

 ですから、ペトロは同じことが聞いている人々にも起こるようにと、彼らに続 けて語りかけます。一七節以下をご覧ください。

 「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者 たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神は すべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、おのようにし て実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立 ち帰りなさい。(一七‐一九節)」

 このペトロの言葉は、十字架上でのイエス様の言葉を思い起こさせます。主は、 死の苦しみの中で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をし ているのか知らないのです。(ルカ二三・三四)」道徳的な罪ならば、それは自 分にも他の人にも分かります。しかし、罪の本当の恐ろしさは、しばしば罪が罪 であると認識されないところにあるのです。自分には罪がないと思っているとこ ろに、実はもっとも大きな罪があるのです。自分は正しいと思ってしているとこ ろに、実はもっとも恐ろしい罪が潜んでいるのです。自分自身の傲慢さや高ぶり、 頑なな心は、しばしば自分自身では認識することができません。それを認識させ るのは神の御業です。

 彼らは、今、この説教の中で、聖霊の働きによって、その彼ら自身の問題が明 らかにされました。その上で、神は使徒ペトロを通して彼らに呼びかけ給います。 「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。」神様は驚くほ ど寛容なお方です。神様が求められるのは、悔い改め、すなわち方向を変えるこ とだけです。命に至るために必要なことは、ただ一つ、神様に立ち帰ることであ ります。それまでどのように生きてきたかは問われないのです。罪は消し去られ、 神を誉め讃えて生きる者へと造り変えられるのです。そして、最終的な救いの時 に向かって、二〇節以下に書かれているような「慰めの時」「万物が新しくなる その時」すなわち、キリストが再臨されるその時に向かって、永遠の祝福の世界 を望み見て生きる者とされるのであります。

 「あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の 子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』 と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あ なたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪 から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。(三・二六)」最後にペト ロは集まったユダヤ人たちにこのように語りました。キリストは彼らを、そして さらには地上のすべての民族が、すべての人々が、祝福にあずからせるために来 られました。今日、私たちも同じ祝福へと招かれているのです。命の導き手を退 けて、この祝福から洩れることのありませんように。

 
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