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「救われた人々」

1996年6月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 2章14節~42節

 今から約二千年前の五旬祭(ペンテコステ)の日、祈っていた弟子たち一同に 聖霊が降りました。彼らは、神の霊の圧倒的な満たしにより、解放され、喜びに 満たされました。そして、 霊 が語らせるままに、様々な国の言葉で、神の偉 大な業を誉め讃え始めたのです。その物音に多くの人々が集まってきました。人々 は驚き、戸惑いながら、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言い 合います。しかし、ある人々は、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っている のだ」と言って、あざけりました。そこで、集まってきた人々に対して、ペトロ が他の十一人と共に立ち上がって、話し始めたというのが今日の聖書箇所であり ます。

 初めに、一四節から一八節までをご覧ください。

 「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダ ヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあ ります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人た ちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そう ではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。「神は言 われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたち の息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしため にも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。…」(使 徒二・一四‐一八)」

 彼らは酒に酔っているのではない、とペトロは言います。「わたしの霊をすべ ての人に注ぐ」という、ヨエル書二章二八節に書かれていることが実現したのだ、 とペトロは説明するのです。

 旧約聖書においても私たちは聖霊のお働きを見ることができます。しかし、聖 霊はすべての人に注がれたわけではありません。神様の救いのご計画の中で、特 に神様によって選ばれた人にのみ、聖霊は注がれたのであります。それは、例え ばモーセであったり、士師と呼ばれる指導者たちであったり、預言者たちであり ます。また、王であるサウルやダビデなどもそうです。そのような特別な人に聖 霊が注がれて、神の働きに用いられたのです。

 しかし、ここで、ペトロはヨエルの預言が成就したのだ、と言うのです。すべ ての人に神の霊が注がれる時が来た。それは、息子であり、娘であり、若者であ り、老人であり、僕であり、はしためです。性別や年齢、社会的な地位に関わり なく、すべての人が、神の霊に満たされ、神の御心に生き、神の御業のために用 いられるという新しい時代が始まったのだ、と言うのです。

 私たちは、神の救いの歴史(救済史)においては、そのような時代に生きてい るのだ、ということを自覚しなくてはなりません。使徒言行録二章から始まった 教会の時代に私たちは生かされているのです。そこでは、どのような人であって も、神の霊に満たされ、神のご計画の中において、神の栄光のために用いられる 者となれるのです。男が用いられます。女が用いられます。若者が用いられます。 老人が用いられます。能力のある者も用いられ、能力の乏しい者も用いられます。 健康な者も病弱な者も用いられます。牧師やだけが神の霊に満たされて用いられ るのではありません。すべての人が神の器となるのです。私たちは、それぞれ、 自分が神の霊に満たされ、神に用いられている姿をイメージできるでしょうか。 そのような期待を持って生きておられるでしょうか。私たちを通して、神が働き 給う、そのことを信じておられるでしょうか。あの時から神のご計画において、 新しい時代が始まったのです。それがペトロの語っています第一のことです。

 次に二二節以下をご覧ください。

 「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエ スこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行わ れた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明な さいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、 お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡さ れたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけ て殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、 復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、 ありえなかったからです。(二二‐二四節)」

 ペトロがなすべきことは、単に聖霊に満たされている人々について解説するこ とではありませんでした。集まってきた多くのユダヤ人たちも、聖霊に満たされ、 神の命に生きる者となって欲しい。ペトロや他の使徒たちの願いはそこにありま した。そのためには、聞いているユダヤ人自身の問題が明らかにされなくてはな らなかったのです。

 そこで、次に、ペトロは、ナザレのイエスというお方が、神から遣わされた方 であると語り始めます。遣わされた方として、イエス様がまず、聖霊に満ちて生 きる姿を見せてくださいました。神との交わりに生き、神の愛に生き、神の命に 生きる姿、神の国に生きる姿を見せてくださったのです。そして、神が確かにそ のようなイエス様を通して御業を行われるということを見せてくださったのであ ります。そして、「その方をあなたがたは十字架につけて殺したのだ」と、彼ら の罪を明らかにするのです。

 ペトロが問題にしている事柄を、もう少し考えてみましょう。

 私たちは、キリストを十字架にかけたユダヤ人たちの中に具体的に大きく三通 りの人々がいたことを思い起こすことができます。第一はサドカイ派の人々です。 彼らは裕福な社会層を形成していた、神殿祭司を中心とした一派でありました。 それは、一方においては非常に現世的世俗的でありながら、同時に、古い伝統を 守ろうとする儀式的なユダヤ教を形成していた大きな勢力だったのです。彼らの 心は分からないでもありません。日本において人々が形骸化した因習と家の宗教 に固執する姿はこれに近いでしょう。

 さて、そのような彼らの形骸化した祭儀的ユダヤ教の前にナザレのイエスとい う方が神から遣わされて現れました。イエス様が聖霊に満たされ、神の命に満た され、神の愛と喜びに満たされた姿を彼らの前に現しました。父なる神はイエス 様を通して力強く働いておられました。それは、彼らの今までの宗教生活におい ては全く接したことのない姿だったのだろうと思います。しかし、彼らがイエス 様の持っているものを求めることは、すなわち、彼ら自身の生き方を捨てなくて はならないことを意味しました。結局彼らはどうしたのでしょうか。彼らは、自 分の今までの生き方に固執して、キリストを殺してしまったのです。

 第二はファリサイ派の人々です。彼らは自らの選択によって、律法を研究する ことに専心し、律法を遵守することに心を用いた人々です。しかし、父なる神と の生きた交わり、神による喜びと命を失っていた彼らの努力は、いたずらに戒律 と規定を煩雑にする一方、互いの間の裁き合いと偽善とを産み出すだけでありま した。このような姿は今日においても様々な違った形で見られます。人間の倫理 的努力にのみ依り頼んだ自己変革や社会変革、そこから生まれる裁き合いと混乱 など、現代においてもファリサイ主義は後を絶ちません。ともかく、当時におい て、サドカイ派が現世的祭儀的ユダヤ教を代表するならば、ファリサイ派は命の ない律法主義的ユダヤ教を代表すると見てよいでしょう。彼らにとっても、イエ ス様の姿は、驚異でもあり妬みの対象でもあったことは間違いありません。イエ ス様の持っているものを求めることは、彼ら自身の生き方を自ら否定しなくては ならなかったからです。彼らは自らの生き方を否定して神の恵みを求めるのでは なく、キリストを抹殺して、神の恵みから自らを遠ざけたのであります。

 第三はローマからの解放を求めていた一般民衆であります。彼らは、大喜びで キリストについて行きました。キリストの姿は確かに群衆を引きつけたのです。 しかし、人々が求めていたのは、あくまでも自分の願望の実現でありました。父 なる神との生きた交わりを求めようとはしませんでした。また、 霊 に満たさ れ、父なる神の用いたもう器となることを、彼らは求めませんでした。彼らは、 何が本当に自分を幸いにするのかということについて、彼らの持っていた固定化 した考えを捨てようとはしませんでした。自分の生きてきた方向を根本的に変え て、キリストの示された神の国を求めようとはしませんでした。ですから、結局、 彼らはキリストを捨て、十字架につけたのであります。

 「あなたがたが十字架につけたのだ」とペトロは言います。要するに、あくま で自分の方向を変えて神の恵みを受け取ろうしない人間の頑なさ、傲慢さが、よっ てたかってキリストを十字架につけたのだと言うのです。自分にしがみつき神を 退ける頑なな心がキリストを十字架につけたのです。そこに人間の罪があるので す。そして、その罪が人を本当の意味で不幸にし、真の命から遠ざけるのであり ます。ペトロが問題にしているのはその点なのです。「神はイエスを遣わされた。 あなたがたは彼を殺した。」それは直接的にキリストを十字架につけたユダヤ人 たちだけの問題ではありません。神に対する頑なな心は人間の共通した問題です。 現代の諸問題、人間の悲しみと惨めさ、もがけど沈んでいく罪の泥沼で苦しむ姿 は、もとをたどれば、そのような神に対する頑なさが産み出した結果に他ならな いのです。

 しかし、話はそれで終わりません。人間の罪が露にされて、それで終わりでは ないのです。神はなおも人間の救いの御業を押し進めていかれるのです。人間の 罪はキリストを十字架にかけました。しかし、神はその御力をもってキリストを 復活させられました。神の力は人間の罪の力より強いのです。神の恵み深さは、 人間の罪深さより深いのです。三二節以下をご覧ください。ペトロは次のように 続けます。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのこ との証人です。それで、イエスは神の右に挙げられ、約束された聖霊を御父から 受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているので す。」

 イエス様の内に満ち満ちていた聖霊が、イエス様の十字架と復活を経て、今や、 すべての人の上に注がれ始めました。イエス様を通して現された神の国、神の命、 救いの力が、今や、どこにでもいるようなただの人々を通して現され始めたので す。

 あの日から始まりました。今も続いています。今は、聖霊の働き給う時代です。 形骸化した儀式によるのでない、命を失った律法主義によるのでない、単なる人 間の願望の実現によるのでもない、まことの救いを神様は聖霊を通して現してい てくださるのです。この罪の世の中にあって、聖霊に満たされ、この地上にあり ながら神の国に生き、永遠の希望に生きるまことの救いを、神は今も示していて くださるのであります。では、その救いに与るにはどうしたらよいのでしょうか。

 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」人々はペトロと他の使 徒たちに尋ねました。ペトロは、この問いに対して答えました。「悔い改めなさ い。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただき なさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」ここに人生最大の問いに対 する、最終的な答えがあります。

 悔い改めるとは、罪を懺悔することではありません。人生の方向を変えること です。自分の生きてきたあり方にしがみついて神の恵みを退けていた者が、頑固 に頑張っていることをやめて、方向を変えて、神の恵みを受け取ることでありま す。そのしるしは洗礼です。方向を変え、立ち帰って、神に赦していただくので す。「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」とペトロは言いました。キリス トの名によって洗礼を受けるということは、単に罪を赦していただくことではあ りません。その目的は聖霊を受けることにあります。方向を変え、罪を赦してい ただき、洗礼を受けた者は、聖霊を受けるのです。ペトロは丁寧にも、さらに説 明を加えています。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠 くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者 ならだれにでも、与えられているものなのです。」もちろん、時代的にも距離的 にも「遠くにいる」私たちにも与えられている約束なのです。

 その日、三千人ほどの人々が洗礼を受けました。彼らは約束通り、聖霊を賜物 して受け取ったのです。彼らの内に神の霊が与えられました。彼らの上にもまた、 あのヨエルの預言の言葉が実現していきました。彼らは救いに与りました。そし て、救われた者として生き始めたのです。それはスタートです。ゴールではあり ません。聖霊によって人に与えられている可能性はイエス・キリストのように生 きることです。父なる神を愛し、父なる神との交わりを喜び、人々を愛し、人々 との交わりを喜び、聖霊に満たされて神の御業を為し給うたキリストの姿を、彼 らは祈り求め始めたに違いありません。今日の箇所に、そのような彼らの具体的 な信仰生活をかいま見ることができます。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、 パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(四二節)」彼らのまず第一の課題 は、神と兄弟たちとの交わりの中で、聖霊に満たされ、満たされ続けることでし た。私たちにとっても、まず求むべきことは同じです。そうして、主は私たちを 用い、私たちを通して豊かに働き給うのであります。

 
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